〔主張〕 「宗派性」と「宗教性」を巡る一考察──創価大学での実践を含めて
 
 
                                     山岡政紀(創価大学文学部助教授)
1.はじめに

 本年1月9日、昨年9月に引き続き、新たな「教育提言」(『聖教新聞』、SOKANETに全文掲載 )が池田名誉会長によって発表された。内容としては、まず、教育現場におけるいじめ、暴力、それを容認するシニシズム(冷笑主義)を否定する勇気を持つことや、そのためには他者の痛みへの共感が重要であることが訴えられる。そして、それを支える「精神性」とは、人間への深い洞察や正義への強い意志であり、それを涵養するためには、自己の中に他者を育てるような、他者との対話が重要とされ、具体的提案として古典や名作といわれる文学作品に触れていくことが示されている。
 私が特に注目したのは、これらの「精神性」の内実を、「宗派性を超えた宗教性」と位置づけられている点にある。つまり、池田名誉会長はこの提言を、宗教指導者としての立場を超えて、教育者の立場から普遍的理念として提示されている。「私の人生の最後の事業は教育である」とは池田名誉会長の言葉だが、まさにその信念に従っての提言と言える。
 本稿では、提言の中心的テーマからは外れるが、ここで用いられている「宗派性」と「宗教性」という似通った二つの言葉の大きな相違について、若干の考察を加えてみたい。

2.宗派性=宗教的言語の恣意性

 「宗教」を定義すること自体、決して容易なことではないが、概して次のように言えるだろう。つまり、人間は、善悪や美醜といった価値に基づいて、よりよく生きようとする存在であり、すべての人は、その行動規範となる価値基準を何らかの形で持っている。その価値基準を言語的に表現することを通じて絶対化したもの──これを私たちは宗教と呼んでいると言える。
 その具体的な内実は、人類史的に見れば、有限な存在である自分を包含する大きなものに対する畏敬の念から始まっている。例えば、台風や地震などの予測のつかない自然の脅威であったり、太陽や星の不思議な運行のことであったり、地球上のおびただしい生き物が織りなす生命系の不思議などである。そうした「自らを超える大きなもの」を絶対的価値の所在とみなし、それを「神」と名づける時に、人間の文化の中に宗教が発生したのである。そして、「神」への崇拝や敬慕や祈願を通じて、自分という存在の価値を確認する、あるいは自分自身に価値付与する行為を信仰と言うのであろう。ここで言う「神」は、宗教によって絶対価値を付与された何かを指す。
 あらゆる宗教にとって普遍のテーマであるのが「生命の尊厳」である。しかし、多くの宗教は、それぞれが絶対価値を付与したものを「生命の源」として位置づけ、それを通して「生命の尊厳」を説く。したがって、その説き方は千差万別となる。
 太陽を「神」と価値づけすれば、それを崇拝することが生命への賛美となる。森の木々を「神」と価値づけするならば、森に祈りを捧げることが生命の神秘に対する畏敬の表現となる。そのように宗教を通して、「生命の尊厳」という感覚を持てるならば、ある意味で言えば、宗教とは人間が自然発生的に倫理観を確立していったプロセスということもできる。
 しかし、そうした価値付与行為というものは、スイスの記号学者ソシュールが論じたように、人間が言語を使用するのと同じ記号的行為であり、恣意的行為である。
 「鰯(いわし)の頭も信心から」という諺があるように、絶対的価値と結びつけられるべきものは極端に言えば何でもよいわけである。人が何を信仰しようと自由だ。しかし、ここで言う「鰯の頭」を尊貴なものと感じ取る感覚は決して一般的なものとは言えない。すると、なぜ「鰯の頭」が尊貴であるかを証明するための特別な言語体系が作られる。ここで行われる価値づけの内実が乏しく、短絡的であればあるほど、それを信じる人々の領域は狭くなるであろう。
 ある宗教を信じる人々の集団が、他の信仰を持つ人々と全く出会うことなく、閉じた社会で過ごしていけるならば、どんな信仰もさほど害にはならないだろうが、現実はそうはいかない。現代社会の中に見られる、特殊な価値観を有する小集団は「カルト」と呼ばれることになる。ここではその具体的事例については省略する。
 このような閉じた集団が持つ特別な言語体系は、文法構造においてこそ、社会一般の言語コードを共有してはいるものの、特殊な語彙を多く生み出したり、特殊な意味世界を構築したり、あたかも異なる言語の話者どうしの会話が通じないのと同じように、他の価値観を有する集団の人々と会話が成立しにくくなる(言葉は通じても価値観の共有が難しくなるということ)。さらに、特に先鋭的なカルトの場合は、そうした会話不能を強烈に自覚した上で、一般社会の方を悪と断じて、信者に家族や入信以前の友人との断絶を命じる。あの毒ガス事件を起こしたカルト教団の場合もそうであった。
言葉の側から見ても、同じ言葉が異なる宗教を信じる人々にとっては違った価値をもつことも大いにあり得る。言語哲学者ウィトゲンシュタインが宗教的言語について、「非日常の文脈で語られるたびに、新たな規則を生成し続ける、一種の典型的な言語ゲームである」と位置づけているのは、まさにこのことである。
 池田名誉会長が「宗派性」と呼んでいるのは、このような特殊な言語体系によって、限定的な共同体の中で共有されている宗教的価値観のことである。その意味では、いわゆる宗教とはみなされていないもの、例えば、ある種のイデオロギーや帝国主義なども、外部者が想定された共同体の中で語られることから、「宗派性」の名に値する。

3.宗教性=普遍的な精神性

 教育現場で「生命の尊厳」を語っていくことの重要性が、今ほど強調される時代はない。 しかしそれは、唯物論的な生命観や合理的思考のみからは起こり得ない。教育現場に「宗教性」が求められる理由がそこにある。
 しかし、「生命の尊厳」を語る上で、「宗派性」の言葉を用いるべきではない。ある宗派の価値観の範囲でしか通用しない「生命の尊厳」を公教育が教えるということは、言い換えれば、その宗派の信仰を児童・生徒に押しつけることとなる。それは憲法の「信教の自由」に反する。教育はどんな信仰を有する人の心にも平等に届くものでなくてはならないのだ。
 それでは、児童・生徒に「宗派性を超えた宗教性」を伝えていくにはどうすればよいのか。これについて二つの具体的提案を行っているのが、今回の教育提言の重要なポイントと言ってよい。
 その第一として、「対話」が挙げられている。悪への無関心やシニシズムと対峙していくには、「自己」の内に「他者」を有することによって「内なる対話」を成立させること、そして、現実の人間関係の中での「内なる対話」と「外なる対話」との往復作業を行うことが重要であると訴えられている。
対話の成立には、相互の信頼や尊敬が不可欠である。その点、他者という存在に対して何らかの信仰的な態度で接することができる人は対話の人だと言える。と同時に、その信仰的な態度は、まさにその対話を通じてこそ、宗派性を超えて普遍化していく。そこに「生々躍動する精神性」があると名誉会長は述べている。
 要するに真の宗教性とは、一つの言葉に瞬時に価値づけされるようなものではなく、自己と他者との間で行き交う多くの言葉と言葉の打ち合いの中で、長い時間を通して経験的に、かつ実感的に把捉されていくものと主張されているのである。
 第二として、古典文学の中に表現された精神的遺産に言及されている。こうした文学作品を読破した時、私たちは、時には生き抜く人間の強さを見、時には人間の愛憎の奥深さを見、自分自身を豊かにすることができる。
 この場合も、人間存在の本質への把捉を、「人生はしかじかである」と一言で片づけるのではなく、文学作品という、壮大な言葉の集積に根気強く接することによって、読む人の精神の中で活性化し、涵養しようとするものである。
このように、「宗派性を超えた宗教性」を求める上では、そうした内実は、短絡的な価値づけによって省略するのではなく、より豊富な言葉を粘り強く積み重ねていくことによって、自己の精神の中に時間をかけて築き上げていく作業が求められている。
 裏を返して言えば、「宗派性」に対して私たちが警戒しなければならないのは、そこで示される価値観に、どれだけの豊かな内実が伴っているか、ということである。「鰯の頭」に絶対的価値を付与する時には、精神性と呼べるような内実は伴わない。
「宗派性を超えた宗教性」の実例がいくつか挙げられている。人間精神の深奥を表現したドストエフスキーの諸作品は、長大な文章を通じて「弁神論」を普遍的宗教性へと昇華させたものである。帝国主義に対するガンジーの非暴力の闘争は、ヒンドゥー教の宗教的信念が、その行動を通じて普遍的宗教性へと昇華されたものである。
 これらの例からもわかるように、真の精神性は、特定の宗教への信仰から発したとしても、最終的には宗派性という閉じた言語体系の中で語られてはいない。このように偉大な人物によって深化された宗教性の内実は、必ず宗派性を超えて普遍化していくものである。
 そして、池田名誉会長自身、創価学会インタナショナル会長として、世界の識者と平和の対話を重ねてこられた。東西冷戦の時代にも民間人として東西を股に掛けて歩かれた。七十年代には日中国交回復に重要な役割を果たされ、現在では隣国・韓国から最も信頼される日本人の一人となられた。これらの行動はすべて、日蓮仏法の生命観、人間主義から発しながら、その行動を通じて「宗派性を超えた宗教性」へと昇華されたものである。そして、それらの出会いにおける名誉会長の対話は、すべて人類共通のテーマを普遍的な言葉で内実豊かに語られたものであった。
 今回の教育提言が示している豊かな精神性の根底にも、日蓮仏法の生命観が脈打っているが、名誉会長は敢えてそれを前面には出さず、宗派性を昇華した教育者として、いかなる宗派を信仰する生徒・児童をもすべて包み込むような姿勢で、教育現場の諸問題を我が問題とし、十分に言葉を尽くして、教育力の復権を呼びかけている。

4.創価大学での具体的提案

 私が勤務する創価大学は、30年前の1971年に池田名誉会長によって創立された。そこには創立者の平和行動を通じて普遍化された人間主義が厳然と脈打っている。したがって、一般的な印象とは正反対に、開学以来いわゆる「宗派教育」は全く行われていない。広く人類のために開かれた大学である。だからこそ創価大学は、今回の教育提言を真っ先に実践し、その真価を広く示していく使命と責任のある大学であると信じる。そこで、以下の具体的教育活動を推進することを提案する。

 第一に、教員と学生との対話の実践である。特に大学教育は、初等・中等教育に比べて、一対多の集団教育になりやすい。しかし、社会に出る準備をしている多感な青年たちこそ、経験豊かな人生の先輩との対話を必要としている。大学教員が研究に没頭し、教育活動を面倒がるようであってはならない。ゼミなどの専門教育のみならず、学生と接触する様々な機会を見いだし、大事にしていく努力が必要である。教員自身も一人の人間として、学生との対話を通じて成長していかなくてはならない。

 第二に、学生どうしの対話の場を尊重することである。学生にとって学業が生活の中心であるべきことは言うまでもないが、同時に、学寮、クラブ、自治会活動など、学生どうしが触れ合い、一つの小社会として人間と人間の対話交流をなす機会を、大事にしていきたい。学業のみに専心して他者との対話を好まない青白い秀才は、真の精神性豊かな人材にはなり得ない。ややもすると大学教員は、そうした学生社会の価値を矮小化する傾向があるが、自分たちの知らないところで学生は成長していくものであることを知り、温かく見守るべきである。

 第三に、大学教育における読書活動の具体的提案として、総合講座「私の読書体験」の開設を提案する。文学作品を通じて涵養される精神性とは、いわゆる文芸評論家の分析とは全く別次元に、一人の読者の人格の中に涵養されるものであろう。したがって、この総合講座の担当者は、文学を専門とする教授のみならず、文系・理系を問わないあらゆる分野の教員によって、毎週持ち回りで担当するのがよいと考える。可能ならば、学外者の社会人などに担当してもらってもよいだろう。
 文学作品を通じての語らいに触発された青年は自らもその書を手にするだろう。そして、それをフィード・バックするための一案として、年度末に総合講座合宿なるものを近県にて行ってはどうだろうか。そこにこの講座の各担当者と受講者(希望者)が参加して、受講者の読書体験を発表しあう場を設けたり、各担当者ごとに分科会をもち、その担当者が取り上げた作品を読んできた受講者たちと語らうなど、読書体験を更なる対話活動に展開することを提案したい。

 以上、三項目の提案について、私自身、創価大学の教壇に立つ一人として、これらの活動を実践、または推進をしていく所存である。
  

2001.4.1