"Il Nome della Rosa" by
Umbert Eco
『薔薇の名前』U・エーコ著 河島英昭訳 東京創元社
イタリアはボローニャ大学のウンベルト・エーコと言えば、記号学の世界的第一人者である。そのエーコがどうしたことか長編小説、しかも推理小説を著して周囲を驚かせたのは、1980年のことだった。異色ずくめのその作品『薔薇の名前』は、その後の十数年間に世界中の大反響を呼び、一千万部を超える驚異的ベストセラーとなった。翻訳は英独仏西をはじめ数カ国語に及び、1990年には邦訳も刊行された。
長編だが、描かれているのはわずか七日間の出来事である。老僧アドソが語り手となり、自らの少年時代のある七日間を回想する形式をとっている。時は十四世紀前半、中世からルネサンスへの過渡期である。そして舞台は、北イタリアの片田舎の僧院である。
当時は二人の皇帝が並び立ち、その覇権争いを巡って、教会の権威が利用され、異端者の名のもとに政敵を排撃しあっていた。
その頃少年アドソは、知人の勧めで、フランチェスコ修道士であるバスカビルのウィリアムとともに、行脚の旅に出た。この二人を主人公として物語は展開する。
フランスに近い山中で二人は問題の僧院に到達した。僧院の略図はエーコ自身によって原著の中に記されているが、それによると、変わった形をした本堂が僧院の隅に建っており、その中には謎めいた図書館がある。この図書館を中心に一連の事件は起こる。彼らが訪れる数日前、写本の細密画家が本堂の東側、つまり図書館の窓の下の斜面で死体となって発見されるという事件が起きていた。ウィリアムはこの事件を他殺と推測した。これを皮切りに、僧院長の依頼もあり、探偵シャーロック・ホームズさながらの彼の推理が展開されていくが、真実が解明される前に、次々と殺人事件が起こる。
二日目の朝には古典翻訳を専門とする学僧が死体となってブタの血の樽から発見される。三日目の夜には図書館長補佐が浴槽から溺死体となって発見される。五日目には薬草係の学僧が頭を割られて死んでいた。さらに六日目の朝には、図書館長が床に倒れて死ぬ。それぞれの死に様はすべて『ヨハネ黙示録』の光景がそのまま現実化したかのようであった。ただ、共通して五人の死者のうち四人は舌を黒くして死んでいたのが不可解だった。
ウィリアムは一連の事件の謎を解くために、図書館に関する情報を修道士たちから聞き出す。そして、図書館の目録の中の「アフリカの果て」と記載された項目の収書がすべて紛失していることに注目し、その中のある書が一連の事件のかぎであるとにらむ。そして、その「アフリカの果て」は実は秘密の通路によってのみ行ける密室にあることがわかる。その密室への入り方は、二番目の死者が残した暗号から解読し、ついに七日目の夜、密室に入り、犯人と対面し、事件の真相を完璧に指摘する。
犯人は、アリストテレスの『詩学・第二部』の中の「笑い」に関わるページに毒を塗っていたため、それをめくった者は、舌を黒くして死んだのだった。「笑い」に好奇心を持つ者に対する報復として、『黙示録』さながらの恐怖の世界を現出して見せたわけである。真実を見抜かれた犯人は『詩学』を火に投じるが、その火は僧院をすべて焼き尽くして、物語は終る。
さて、もちろん、以上は虚構だが、ルネサンス当時の時代状況は的確に捉えられている。
そもそも、問題の僧院では、対立する二派の使節団の会談が行われるはずだったが、訪れた教皇側の異端審問官ギーは、僧院での事件を知り、その犯人を異端者の仕業と断じ、会談を破綻させるという場面がある。これなどは、当時の教会の対立の史実に依拠したものだろう。
要するにルネサンスとは、腐敗し堕落した聖職者を打破し、ギリシア古典に描かれている人間性を復興させていこうとする壮大な文明変革であった。ここに登場する、アリストテレスの『詩学・第二部』にも人間の理性的な自立が説かれていた。犯人が最も忌み嫌ったページには「笑い」が描かれていた。それは聖書をパロディー化したもので、神への恐れに対する挑戦ともとれた。犯人はそれを読もうとするすべての人間を憎み、殺そうとして、そのページに毒を塗っていたのである。
「笑い」の対局には「恐れ」がある。一連の殺人事件の犯人である盲目の老僧は極端に笑いを忌み嫌った。笑いを許す者は反キリスト者であると主張した。彼にとって神は人々が恐れを抱くような神秘的存在でなければならなかった。それは、人間性の復興という名のもとに自らの聖職者としての権威が冒されることを恐れた保身によるものだったかもしれない。人々をして絶対服従させるためには、恐れを感じさせなくてはならないからである。だからこそ、人に笑いを許してはならなかったのだ。笑いは神への恐れを薄れさせてしまう。虚構と脅しで塗り固められた聖職者の言辞もその本質を見抜くならば、笑い飛ばしてしまうべき滑稽なものにすぎない。笑いは人間にとって自然な発露であり、そしてそれが、空虚な威嚇で人々を隷従させようとする権力者たちに向けられるとき、これほど威力を発揮するものはない。それは理性と自立の象徴であり、権威を持たぬ人々が、抑圧を楽しくはね返す真実の声なのである。
最後に『薔薇の名前』というタイトルについて若干触れておきたい。エーコ自身がインタビューに対してこう答えている。「『薔薇の名前』というのは中世ではしばしば使われた表現で、言葉の限りない力を意味するのです」。目の前になくとも、バラの名前を言っただけで、バラは我々に現れている、と論じたのは中世の唯名論者たちであった。この物語の中では、『黙示録』、『詩学』、『神曲』、『デカメロン』といったテクストが、事実へと展開するが、それはそれで新たなテクストとして創作された、つまりあくまで言語内に閉じた虚構として作られたものなのだ。そして、それら複数のテクストは作品の中でそれぞれ独立して進行する重層性を持っている。教会の対立や、暗号の解読。それに、アドソが生涯でただ一度交わった、名前の無い村娘のこと、などなど。それぞれが、独立してある真実を表している。“名前の中に真実がある”との主張と『薔薇の名前』の真意が結び付くとき、記号学者であるエーコがこの作品を手掛けたことの本質が明らかになるだろう。要するに、本書は無目的な言葉の戯れでありながら、そこに歴史と人間の真実を表現してみせたものだとは言えまいか。