モーツァルトを旅する(27)   交響曲第40番ト短調K550ー人間性の昇華を導く音楽ー (midi第1楽章第2楽章第4楽章


 2006年もあと一日を残すのみとなった。テレビでは、NHK音楽祭2006でモーツァルト生誕250年の特集を、週末などによく放送している のを見かけたが、最近は日々多忙で、なかなか落ち着いてテレビの前で音楽鑑賞という機会には恵まれなくなってしまった。このままではせっかくの特集を見そびれてしまうと思い、去る12月17日の夜、この番組に久々に見入った。
 ファビオ・ルイージ指揮によるウィーン交響楽団の公演は本年11月のライブ録音である。演奏は大曲が数曲続いたが、まず、上原彩子のピアノによるピアノ 協奏曲第22番がすばらしかった。大曲の中に秘められたこの曲の繊細さが見事に表現されていたように思う。
 そして、続いて放送されたのが交響曲第40番であった。モーツァルトの交響曲のなかでは最も人気の高い曲と言っても過言ではない。ただ、わたくし 自身はどうかと言うと、本当に好きになったことが一度もない。聴きながら快感を味わったことがないのだ。だから、自分が一人になって心を癒したいときに、 この曲を聴こうと思ったことがない。以前にこのエッセイにも書いたが、わたくしはモーツァルトの交響曲のなかでは、第31番「パリ」がダントツで好きで、 数えきれないほど聴いたが、それに比べるとこの40番は惹き付けるものがまるでないのだ。食わず嫌いなわけでもない。有名な曲だから自然と耳に入ってく る。どの楽章のどの部分もよく知っている。街角でこの曲が流れているのを耳にすれば、どの楽章のどの部分であれ、モーツァルトの40番だとわかる。それで も、ああ心地よい音楽だと思ったことがなかったのだ。なぜなのか、自分でもよくわからなかった。それでいながらこの日は、この曲の演奏が放送されるとわ かって、少しだけでも聴いてみようと思い、テレビの前でしばし待つことにした。

 演奏開始前に、指揮者ファビオ・ルイージのインタビューが流れた。「封印されたト短調に挑む・交響曲第40番を拒み続けた理由」と題されていた。 ファビオ・ルイージ。イタリア出身ながら本年ウィーン交響楽団の常任指揮者に就任したばかりの、まだ若い指揮者だ。今年で47歳。わたくしとも年齢はそう 変わらない。その彼が、モーツァルトの第40番の演奏には大きなためらいがあり、これまでことごとく避けてきたのだと言う。まだまだ若いのだから、何十年 という遠大なためらいではない。しかし、この一流の指揮者が、演奏会で初めてこの曲を披露するというのはたしかに意外なことだ。わたくしは、この曲から感 動を受けることを拒みつづけてきた自分自身の体験と重ね合わせながら、彼の言葉に静かに耳を傾けてみた。

 ーーこの曲は、 指揮者の人間性を問う音楽です。人間的な成長がなければ、人としてある域に達しなければ、決して演奏できない曲なのです・・・・・・

 彼の言葉には、この作品に対する強い畏敬の念、そして自らに対する謙虚な心が、色濃くにじみ出ていた。レパートリーという言葉があるが、演奏家に とって作品は決して持ち物ではない。時代を超えて演奏されてきた名作の持つ崇高さ、峻厳さ、その高みに対して自らを低い位置に置き、時間をかけてその曲の 高みに迫ろうとする姿勢それ自体が、この指揮者の人間性がただならぬものであることを感じさせた。きっと長いあいだ、この曲と格闘してきたのだろう。その ことを感じ取れずにはいられないインタビューであった。

 人間性ーー。それは指揮法の技術で言うと、どの辺に現れるものなのか。指揮棒の動きに現れるのか、はたまた指揮者の全身の動きか、顔の表情か。そ のことを説明する力はわたくしにはない。しかしながら、音楽というものが人間の心に響いていく人間文化である以上、指揮者がその演奏の人間性を司る存在で あることだけは、間違いなく真実である。
 今はハイテクの時代だから、コンピュータ上の楽譜作成ソフトなども存在して、入力した楽譜を機械的に読み込み、演奏する機能が当然のようについている。 そこでは、テンポ設定も、音程の高さも機械的に固定される。しかし、人間の演奏には機械ではとうてい表現し得ない、微妙なゆらぎがあるものだ。そこに奏者 の人間性が表現される。楽団全体を個々の奏者の人間性ではなく、一つの心、一つの音楽性にまとめあげていく役目を果たすのが指揮者である。音楽は本来、機 械ではなく人間が演奏するものなのだ。

 彼はそうした人間性という必須要素を自らへの課題、更に言えば使命として自らに課してきたのだ。あらゆる曲はそれを要求するのだろうが、この40 番は特にそれを強く求める曲なのである。淡々とした彼の語りの最後に、それでも彼が今回、この曲の演奏に取り組むことを決断したその強い意志というものが 表現されていた。

 いよいよ始まった40番の演奏に耳を傾けてみた。画面に映るルイージの指揮を見つめつつ。
 第1楽章。どうしたことだろう。この曲がこんなに美しい音楽だったと、どうして今まで気づかなかったのだろう。本当に心地よいのである。ト短調の第一主題が表現しているのはただただ悲哀だと思っていたが、今日のこの演奏には込められているのは単に悲しさだけではなかった。そこには、潤いがあり、ふくよか さがあり、弾力性があり、濃密な甘美さをも表現されていた。こうして言葉にしてみると別々の語で形容せざるを得ないのだが、それはバラバラのものではなく、渾然一体の豊かな表情なのだ。今日初めて聴いたものとは思えないぐらい、わたくしのなかにある感情である。外から耳を通じて聞こえてくる音楽なのでは なく、心のなかにたしかにあるものなのだ。
 第2楽章。ゆったりとした曲想に変わり、弦の響きがあたかも風のない晴天の湖面のような穏やかさを漂わせている。この大きな場面転換にもかかわらず、第 一楽章が持っていた豊かな感情はそのまま引き継がれている。どこか寂しく切ないのだけれど、そのなかに癒しがあり、甘えさせてくれる懐の深さがある。母が 唄う優しい子守歌に包まれた赤ん坊のように、そのままじっとしていたいと思えるような心地よさ、温かさがそこにはあった。
 第3楽章。これまでに聞き慣れたこの楽章の演奏よりもテンポが速く、しかも強奏である。モーツァルトというより、どこかベートーベンのような激情を伝え ようとしているようにも見える。だが全く不自然ではないのだ。ああ、この楽章はこういう曲だったのか、やっとわかったと手を打つような、発見があった。こ の強奏を作為的にやろうとすれば不自然な音楽にならざるを得ないだろうが、この日聴いた演奏はそうではなく全く自然だった。指揮者には一切の躊躇がなく、 確信が感じられた。むしろ未来に向けての強い意志、決然たる覚悟が示されていたようにも思える。第1・2楽章の受動的な美しさがそのまま能動的な力強さに 昇華されたような、そんな気さえした。
 第4楽章。前楽章の激情のまま、フィナーレに突入する。冒頭は弱奏だが、あっという間に強奏となる。これを何度も繰り返す。前楽章が自陣における意志・ 決意の表現であるとするならば、第4楽章は戦場への出陣を表現していると言ったらさすがに言い過ぎだろうか。そのように言わしめるほどの強い感情が表現されているのだ。それは怒りや憤りのようでもあるが、苦悩の側にあるそれではなく、真実の主張のようなすがすがしさにも似た感情であった。リズミカルな律動 とともに聴く者が乗せられていくような感さえあった。中間部では、フーガのように旋律がいくつも折り重なっていくが、それは同じ意志を持った生命体が実は 空間のあちこちに充満していて、その一つ一つが姿を現し、戦いに加勢していくようでもあった。そして、澄み切った高揚感のうちに曲は終わりを告げる。

 最初だけでも少し聴いてみようと思ったのが、気がついてみるといつしか全曲を聴き終えていた。テレビ番組のオーケストラでこのぐらい聴き惚れたのは初めてかもしれない。モーツァルトの40番がたしかに名曲であることをわたくしは改めて知った。ルイージが迷いを乗り越えて到達したこの曲の境地に、わたくし 自身が身を委ねることができたのだ。
 それにしてもルイージだけが特別なわけでもあるまい。これまでも多くの人を感動させたこの曲の名演に何度となく出会っているはずなのだ・・・・・・。わ たくしはふとこんなことを考えた。ひょっとすると、音楽の持つ人間性というのは、演奏する側のそれと、聴く側のそれと、両方あるのではないかと。ルイージ が、この曲を奏する者の境地に達したのだとすれば、わたくしはこの曲の感情を受容できる境地にいつしか達していたのかもしれない。

 それにしても画面に映るルイージの指揮には不思議なカリスマ性があった。それは彼の全身の動きがまるでパントマイムのように、この曲の感情を表現していたからである。それは言葉で「○○のような気持ちで」などと言うよりも遥かに具体的で普遍的な感情表現と言えるだろう。
 もちろん、客席に背中を向けている彼の表情は、本来聴衆に見せるものではなく、テレビだからたまたま見えただけである。ただ、わたくしもクラリネット奏 者の一人としての立場から言えば、この人の指揮ならば演奏しやすいと感じられた。表現している感情がわかりやすく、かつそれは、まさにその曲が内包した自 然な表情だったからである。
 そしてそれは思いつきやアドリブではなく、完璧に律されていた。この曲が内包する精神に身を委ねたことによって、厳しく統御されていたように感じられ た。

 彼の表情は能楽に似ている。日本の伝統芸能である能楽では、能面を被って素の表情を隠し、実に微妙で繊細な全身の動きだけで、心の表情を表現する。例えば怒りの表情は、顔の微細な横の動きによって表現される。悲しみは顔のわずかなうつむき加減と涙を隠す手の表情によって表現される。第40番第4楽章の演 奏の際にルイージが示した顔の動きはまさにこの能楽の怒りの表情に通じるものであった。指揮は演奏をリードする側だから、楽器の奏者よりも一拍先に表情を 表現することになるが、全曲を通じてそれを彼は完璧にやりぬいていた。微妙な動きにもかかわらず、完全に確実に奏者に感情が伝わっているのがわかった。

 ともあれ、わたくしにとって目まぐるしく過ぎていったモーツァルト生誕250年のなかで、自分が決してすり減ってはおらず、モーツァルトを鑑賞できるだけの心の余裕が自分のなかにあったのだという事実に気づき、一息の喜びを感じている。わたくしの多忙さは、不幸に追い立てられての忙しさではなく、自らを 駆り立てて戦場に赴いて行っての忙しさである。多くの人と語り、泣き笑いしている。そうした日々のなかで、たとえわずかでも人の心が受容できる自分へと人 間的に成長しているのだということを、愛するモーツァルトの音楽を通じて確認できたのなら、忙しく生きていることの甲斐もあると思える。そのことをここに 綴って静かに新しい年を迎えていこうと思う。 

2006.12.30


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