Michel Foucault: L'ordie du discours 1971
ミシェル・フーコー著/中村雄二郎訳『言語表現の秩序』/河出書房新社 1972年刊
自然言語というものは、日常的な社会生活や共同生活に於ける必要最小限の表現を提示する機能しか持っていないために、科学や哲学に携わる、また好む人は、言語形式が複雑な論理操作中の多様な意味を持て余すことをしばしば経験する。そのような経験が、本書のための予備知識ならぬ予備経験として必要であろう。
言語表現は社会という超個人的存在の存在しかたそのものであり、それは社会という有機体を流れる血液のようなものである。一方、社会の成員もまた個々に常識という名の秩序を持ち、社会に向けてアンテナを伸ばしているわけである。さて、その個的秩序と超個的秩序とは互いに互いを規定しあいつつ、全体として維持される。
言語がその文化との間でどのように規定しあい、極端に言えば、無意識的・超個人的な文化形成に与っているかということに対してのフーコー独特の構造主義的な展開の一端をこの本から窺い知ることができる。
そこで、本書は次のことを仮説とする。言語表現の生産は、いくつかの手続きによって同時に統御され、選択され、組織化され、また、それによって言語表現自体が物質化して一つの力を持つのを押さえる、と。
その手続きの第一群は言語の外側からの排除のシステムである。第一に、いわゆるタブーがあり、その典型はセックスである。第二に、社会が持っている理性のひながたが言語表現を、理性的なものへと限定していくありかたがある。第三に、言語表現が常に真偽値を自由に持ちうる可能性に満ちているところから、真実選択への意図がその際に働く。
手続きの第二群は言語の内側からの自己規定である。言語自体が概念化、類型化といった機能を持っているが故に、法律や科学のテキストは、言語の方から出来事を規定するという方向を採る。その出来事の価値を維持しようという意図はその言語が背景に持つ様々な事象を注釈として言語を規定していくことによって達成される。
第三群の手続きとは、言語表現の語る主体をその言語表現の中から排除していくことである。言語には常に主体の発動があるということを忘れていくことによって、客観事象という架空の世界を言語によって虚構することができる。特にいわゆる書き言葉(エクリチュール)はその典型である。
いずれにせよ、言語は本質的に他者との了解によって成り立つ記号的行動であるが故に本質的に他者を知ることのできないはずの、また他者に知られることのできないはずの絶対的自己というものは言語表現とは異なる次元に存在するのである。そして、社会と個人との間、無意識と意識との間を橋渡す手続きとしてこれらのことをフーコーが述べたと理解するのがよいだろう。
創価大学ホームページへ
日文ホームページへ
山岡ホームページへ