メディアよ、市民の側にもどれ

書評:『「報道加害」の現場を歩く』浅野健一著/社会評論社刊/20031230日発行


 何のために報道するのか、メディアの存在意義は何か──最近、ある本を読んでこの問いを強くした。その本、『「報道加害」の現場を歩く』(浅野健一著、社会評論社刊)には、犯罪をめぐるメディアの取材・報道姿勢が新たな加害者となって人々を苦しめていった実例が詳細に報告されていた。メディアの記者が警察の取り調べのような暴力的な取材を行って被害者を二次被害に遭わせたケース、容疑者に関する情報を過度に報道することによって事件と無関係な第三者を傷つけたケース、メディアの予断に基づく犯人決め付け報道により、一種のメディア・リンチが行われたケースなどなど──いずれも事実に基づく衝撃的な内容であった。衝撃的といっても、全く知らなかった新事実という意味ではなく、知っていてその矛盾に気づかなかった自分、そういうメディアを平気で受け入れてしまっている歪んだ社会の一員である自分に対する衝撃と言うべきかもしれない。

 本来メディアは、公権力と対峙して、ほどよい緊張関係を生み出すような位置にあるべきである。権力に取り込まれてしまったら不正をただすことはできない。表現の自由とは、メディアがどこまでも「民」の側の代弁者でいられることを保障しているのである。しかし、現代日本におけるメディアの実態は、活字や紙面という武器をかさに着て、第二の権力とも言うべき図々しく強圧的な態度で「民」と対峙している。

 教育者ならば児童や生徒の尊厳に思いが至らなければ、真の教育者たり得ない。同様に、報道者ならば、取材や報道をされる人の人権を尊重できずしてどうして「民」の代弁者たり得ようか。教育者がビジネスマンに成り下がったら社会が荒廃する。これは仮定の話だ。報道者の場合は、既に商業主義に成り下がって、日本の社会に人心荒廃の暗い影を落としている。これは仮定ではない、事実なのだ。

 昨年国会で個人情報保護法案が審議された際、メディアは挙って言論弾圧と叫んだ。しかし、こういう時だけ「民」ぶって権力と対峙してみせるのはズルくはないか。メディアの権力がいかに強大で、市民に脅威を与える存在であるかをもっと自覚し、謙虚さをもつべきである。そして報道に携わる人の倫理観、人間観が重要であることを切に訴えたい。

2004.4.7


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