"ILLUSIONS" by Richard Bach
『イリュージョン』R・バック著 村上龍訳 集英社文庫
友人に勧められてイリュージョンという作品を読んだ。「かもめのジョナサン」で知られるR・バックの作品である。ちょっとした感銘を受けたので、感想を書いてみようと思う。
最初に簡単なあらすじを紹介しておこう。
この作品は終始、主人公ドナルドと語り手・リチャードの二人のやり取りで進められる。リチャードが作者自身だと考えると、典型的な一人称小説ということになる。
軽飛行機に乗客を乗せて遊覧する仕事をしていたリチャードは、ある日、同業者のドンと出会う。
ドンは不思議な人物で、ドンの飛行機のプロペラにぶつかって死骸となった虫を全部蘇らせたり、工具を空中に浮かせたり、飛行機に乗せてほしいと言ってきた車椅子の男を立って自分の足で歩かせてみせたり、何でも自分が思い描くことを実現することができた。
ドンは実はかつて救世主をやっていて、常に人々に囲まれ、教えを請われて生きていた人だったが、「自由に生きたい」と考え、救世主をやめて、飛行機乗りになったのだった。
リチャードは完全にドンに魅せられ、ドンと共に日々の仕事をするようになり、いつしか救世主になる方法をドンに教わるようになる。もちろん、リチャードは救世主になりたかったわけではない。ただドンが手にしている「完全なる自由」を手に入れたかっただけなのだ。そしてリチャードはいつしか、リチャードと同じ不思議な能力をわずかながらも得ていく。しかし、最後はドンの自由な生き方故のあっけない最期となる。
以上が大体のあらすじである。
果たして、作者はこの作品を通じて何を語りたかったのだろうか。
ドンが持っていた「救世主入門テキスト」の言葉が、作品の全般を通じて、何かを訴えかけるように示されている。といっても、その多くはその時偶然開いたページであって、作品中の脈絡もよくわからないことが多い。それでも、そこから意味を読み取ろうと思えば、必ず何かが浮かび上がってくる。
むしろ、リチャードがドンと共に過ごした日々の中でドンから学んだ数多くの出来事がこのテキストの言葉によって意味を与えられていくように思える。そしてそれは、決してそれは陳腐な教訓ではない。
いくつか抜粋してみよう。
どこから来てどこへ行くのか、
最初の地で、君が自ら身を投じた混乱の渦がある。
その混乱を理由が何であったか、忘れてはいけない。
君達は恐ろしい死を遂げる。
それもまた忘れないように。
君にふりかかることすべては訓練である。
訓練であることを自覚しておけば、君はそれをもっと楽しむことができる。
これは、リチャードが最初に目にしたページの言葉だ。作者はこれらに無用な論評を加えない。読む人が見出した意味。それが正解である。私にとっての正解は、自由な生き方を選択することは、それだけの試練に耐えることも同時に要求される。むしろ、真の自由とは試練の連続であり、人間は成長し続ける動物なのだと。
想像せよ
宇宙は美しく完璧であると、
預言者は君達よりうまく
それを想像するだけである。
これを僕は、神と人間の可能性の連続を示唆した言葉と受け止めている。天地を創造する神の力は、何でも想像できる人間の力なのだ。日本語ではたまたま同音異義語だが、まさに想像こそ創造なのだ。
小説の登場人物になろうとしたことはなかっただろうか?
もしそういう経験があるならば
君達にもわかるかもしれない。
時として、
虚構の中の人物の方が、
心臓の鼓動をもつ人間よりも強く、
真実を語ることを。
真実と現実とは違う。僕はそう思っている。現実を知るというもっともらしい言辞の陰で、わざわざ自由を放棄する生き方を選ぶことはない。真実の中に身を置いた時に、どれほど現実を動かす力が自分にあるかを知ることもあるだろう。そう思った。
「救世主をやめる」とか「救世主入門テキスト」などという、救世主を職業のように扱う言い方そのものが、どこか神への信仰を風刺しているように思える。神なる存在も人間の現実的な苦悩の中から生れたものだという、どこか冷めた感情が匂う。
そしてその、泥臭い人間の生きざまそれ自体がまさに、無限の可能性に満ちた完全に自由なる世界なのだということを、いろんな言葉を通して訴えようとしているようだ。つまり、信仰とは人間というものの可能性を信じることだと。
ドンが語るこんな一節がある。
「イリュージョンだ、リチャード、この世の全てはイリュージョンだ。何から何まで 光と影が組織されて、像を結んでいるだけなんだ、わかるかい?」
この言葉にはどこかネガティブな響きがあるが、一方、人間は現実の中で、環境に支配されて生きているようだけれど、その強力な現実なるものは、実は幻影なのだと、つまり、自らがその幻影を創出しつつ生きれば、それが最高に自由な生き方なのだと訴えているとみれば、極めてポジティブな言葉として受け止められる。また、その人生を生きて見せたのがドンだったのだろう。
ドンが池の上を歩き、草原を泳いでみせるシーンがある。何でも自由だとしたら……。こんなところ歩けるわけがない、こんなところ泳げるわけがない、そう思って一歩も踏み出さなかったことへ、一歩踏み出す……その象徴かもしれない。
この時たまたま開いたテキストのページには、こう書いてあった。
いつも君は白い紙を持っている。
それはほとんどの場合、計算のための用紙として使用される。
しかし、もし君が望むなら
そこに現実を書き込むことが可能だ。
意味のないこと。嘘。
何でも書き込むことができる。
そして、もちろん、
破り捨てるのも自由だ。
この作品の狙いは、救世主という堅い、どこか非人間的な、禁欲的な響きのする存在を、人間の世界に引きずりおろし、逆に人間自身の可能性に置き換えた、ということではないだろうか。
そして、生涯飛行機を愛した作者が、自由に空を飛びながら追い続けた夢を、人間への信仰として語った作品なのだろう。だとすれば、彼の生涯で最も思いの深い作品かもしれない。
この本を読み終えて、少なからぬ感慨と共に僕自身の生き方に今後影響をもたらすであろう部分があったことを自覚した。それは、「人を傷つけてもいい」ということだ。人間、誰しも自由奔放に生きれば必ず他人を傷つけたり、迷惑をかけたりするものだ。それを恐れることが、ある意味で現実というものの苦しさそのものなのかもしれない。
そこで敢えて、一旦、「人を傷つけてもいい」という楽な気持ちになってみようと思った時、自分の可能性が少し広がったような気がする。
ドンの最期は、逆にそれを受け入れることで傷ついて死んでいくのだが、それを実にさりげなく描くことによって、人に傷つけられることだって大したことじゃないんだよ、安心しな……って、言ってくれているようにも思えた。
(『Oracion』モス・クラブ刊より)