太宰治『グッド・バイ』を読んで

 高校三年 山岡政紀

 

 この作品は作者太宰治が執筆途中で自殺し、未完成に終わったものだが、それを感じさせない明るさを持っている。それが一番の魅力だ。主題は様々な別離の姿という暗いものだが、主人公田島と鴉声(からすごえ)の美女キヌ子との豪快なやりとりは、十分暗さを打ち消している。恐らくこの作品を読んだ誰もが、連載ものの次号を待つような気持ちのままだろう。未完に終わらせてほしくなかった、惜しい作品である。

 

 なかでも、僕が注目したのは、永井キヌ子という女性の人物像である。田島の数多い愛人の誰よりも美しいという絶世の美女であり、しかも、がめつい闇屋で、怪力のかつぎ屋で、大喰いで、鴉声で、普段は汚らしい格好をしているとはおもしろい。美女は今の世にもこんな風に埋もれているのかもしれない。

そういうキヌ子を田島は、愛人と別れる手段に利用した。恐らく、その愛人達との別離を一つ一つ描きながら、その都度、愛人達とキヌ子とを比較していこうという意図が作者にはあったに違いないが、未完のため、青木さんという女性との別離が描かれたのみで、二番目の水原さんについては下調べで終わっている。

その青木さんとキヌ子に注目すると、実に対照的に描かれている。僕なんかは女性に接することが全くないので、女性に対する見方などわからないが、この部分を読んだ限りでは女性の本質的な価値は、どれだけ男性に真心をもって尽くすことができるかにある、と訴えられているようである。つまり、美女キヌ子の口の悪さやがめつさを醜く描き、青木さんのやさしさやしとやかさをキヌ子とは対照的に描くことによって、田島が青木さんと別れることがいかに寂しいかを効果的に表現している。

 

しかし、怪力の章でのキヌ子は、これまで何人もの女性の心を捕らえたプレイボーイ田島に少しの興味も見せない点や、彼女の汚らしい部屋の中にあって、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋である、金色の香気漂う押し入れが存在する点など、キヌ子の謎めいた部分を見せている。田島はここでキヌ子をおとなしくさせるために、ものにしようと、夜にキヌ子の部屋に行くが、怪力で殴られて寒い夜空に追い出されるという、プレイボーイにとって大きな汚点を残してしまう。しかもそれが全く愛情を感じていなかったキヌ子が相手なのだから、大きな痛手だったに違いない。

注目したいのは、この章ではキヌ子は決して醜く描かれてはいない、ということである。多くの愛人の誰にもないキヌ子の個性は、続編ではきっと、田島にとってどうしても手に入れたいものになっていったのではないだろうか。現実にはありそうもない人物像だが、それだけにこの小説を貴重なものにしている。

 

さて、主題である別離の姿は、とり方によっては非常にあっさりと描かれているといっていいだろう。青木さんとの別れの最後の言葉は、題名にも用いられている「グッド・バイ」という、ふざけたものともとれる、味のないはずの言葉である。しかし、その時の田島の気持ちが、この言葉に、いたわるような、あやまるような、優しい哀調に似たものを帯びさせた。それによってこの別離は大変特徴的なものとなって、しかも実に内容の深い感嘆を読者にもたらしている。

続編ではこの「グッド・バイ」が、残りの愛人達との別れに於いて様々なイメージをもって出されたと思う。例えば、水原ケイ子との別れでは、田島はケイ子の乱暴者の兄に殴られて、やっとの思いで逃げながら、「グッド・バイ」と叫ぶ、というのはどうだろう。やはりみじめな姿ではあるが、苦笑いしたくなるような、同情にも似た感傷を読者に与えるのではないだろうか。

 

しかしながら、すべての別れに共通な、あるやり切れない感情を残しておくだろう。それは、太宰自身がこの世との別れを決意した時の、過去の様々な経験から結びついた感情、直接言葉にはできずに、共通のイメージによって表現した、悲しい感情でもあろう。

太宰はこの「グッド・バイ」を最後に、自身の本当の悲しさを表現しつつこの世を去ろうと決意しながら、途中で感情が高まり、続けられなくなってしまったのではないか。そう思えてならない。

 

1981.3.16 (創価学園生徒会誌『渓流』第五・六号より)

 

※本文は、1980年度高校生読書感想文コンクール(旺文社主催)で全国2位を受賞したものを、学園卒業に際し、生徒会誌に掲載して頂いたものです。太宰治生誕100周年を記念して29年ぶりに本サイトに掲示します。2009.3.21

※太宰治 『グッド・バイ』は、新潮文庫(ISBN: 978-4101006086)、角川文庫(ISBN 978-4-04-109911-7-C0193)などで手軽に読めます。


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