バークレー日記

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)


Jan/18/2006 英語の世界(5)  夢


「夢」ということば


 「夢」ということばは多義的である。『明鏡国語辞典』(大修館書店)の「夢」の項には次のように記されている。

 ゆめ【夢】@睡眠中にさまざまな物事をあたかも現実の経験であるかのように感じる心的現象。多くは視覚像として現れる。A将来実現させたいと思っている 願い。B現実から離れた空想。Cはかないもの。また、たよりにならないもの。

 ことばの本来の意味を臨時に逸脱して用いるのが比喩、特に隠喩(metaphor)だ。隠喩というのは、語の辞書的意味から離れ、それを用いる人の裁量 で自由な意味を託されるものだから、それ自体は辞書には記載できない。しかし、そうした比喩的用法がある程度定着して一般化していくことがままある。つま り、臨時的逸脱ではなくなっていくということだ。例えば、「土台」という言葉の本来の意味は「@建築物の最下部にあって全体を支えているもの」。だが、そ れを比喩的に用いた「A物事の基礎」も、今日十分一般化されているので、こうやって辞書のAとして追加されるわけである(同辞典)。

 比喩的用法から派生するこれらのケースでは、本来の意味は物理的・具象的な概念で、派生的意味は抽象的な概念である場合が多い。言語学者のくせで、つい 説明から入ってしまったが、要するに、「夢」もまた、眠っている間に見る夢@を本来の用法として、ABCが派生しているということである。ただ、おもしろ いのは、「夢」の場合、本来の意味である@も決して具象的とは言えない点だ。現実ではないことを見る、時には絶対にあり得ないような光景さえ見る、そし て、それはおぼろげであいまいで不確かなものである、という点で、@の意味もABCの意味も共通しているのである。

英語の夢

 前置きが長くなったが、わたくしがこの日記に「夢」を取り上げようと思ったのは、最近とみに英語を話している夢を見るようになったことを、「英語の世 界」のシリーズとして書こうと思ったからだ。英会話能力を量るときに、「英語の夢を見るようになったら、相当に英語が身についた証拠だ」という話をよく聞 く。自分はずっと同じ環境にいるので、自分の能力がどの程度なのかはなかなか客観的に量れないのだが、夢の中で一生懸命に英語を話している自分を目が覚め てからも覚えているのはたしかで、しかも、どういう内容の話をしたかも不思議と覚えている。見知らぬお宅にパーティーに招かれたときに、一生懸命に自分の 趣味や家族のことなどを話している自分がいたりする。

 前にスペイン語が英語よりも好きだと書いたが、不思議なもので、未だにスペイン語を話している夢は一度も見たことがない。キューバらしき、青い海と椰子 の木に囲まれた場所にいる夢なら何度か見たことはあるのだが。好きだろうが、嫌いだろうが、否応なしに自分のなかに英語が根づいてきたことの証なのだろう ということと、@の夢は、非現実とはいえども、現実の格闘とつながっているのだなと思うのである。

子どもの頃の夢

 小さいころ、高いところから落ちる夢をよく見た。空中に自分がいて、地面に到達するまでの恐怖はものすごかった。また、自分は体が弱く、しょっちゅう風 邪を引いていたが、高熱を発しているときに見た深い闇の夢の記憶がある。10歳ぐらいのある夜のこと、何十年も休まずに毎日積み上げていった積み木のよう なものを、ある日突然、全部崩してしまったような、とてつもない深い喪失感の夢を見て、「助けて」と叫んで目が覚めたら、いつもの自分たち兄弟の部屋だっ た。しかし、それは深夜のことで部屋は真っ暗だったが、隣で寝ていた兄が心配そうに「どうしたの?」の話しかけてくれた。そのあと、兄が階下から呼んでき てくれた母が、着替え、氷嚢、薬などの世話をしてくれたが、その後も、わたくしは寝汗がひどく、その晩、枕元の洗面器に何度も嘔吐を繰り返し、高熱にうな されたことを覚えている。

 小学校では、卒業文集に将来の「夢」を書いた。Aの意味の「夢」だ。わたくしは「小説家になりたい」と書いた。当時から文章を書くことが好きで、修学旅 行の紀行文は原稿用紙に100枚も書いた。卒業文集に自分が将来不幸になることを予想して書いた子は、もちろん一人もいなかった。いつの時代のどの小学生 も同じだろう。Aの夢は明るく希望にあふれているものだ。しかし、睡眠中に見る@の夢には、いい夢もあれば悪い夢もある。いい夢を見たから幸せだというわ けでもない。100万円拾った夢を見て、目が覚めたときに、自分は幸せだと思うだろうか。

近年見る夢

 ここ十年来、よく見る夢は三通りある。一つは、幼少期を過ごした京都山科のかつての自宅の居間や兄弟で過ごした自室の光景である。12歳までをこの自宅 で過ごし、中学から東京で寮生活をしたが、25,6歳の頃に転居するまで、実家はその家だった。しかし、その家は昭和初期に建てられたものらしく、老朽化 が進んでいたので、同じ山科区内で新築の家に転居したのだ。それ以降、その家の前にすら行ったことがない。おそらく既に取り壊されて今はないと思うの だが、それを見るのが怖い気もする。心の中でその当時の家のなかにいる自分を想像すると、今まさにそこにあると思えるぐらいすべてがリアルだ。当時の 家から小学校までの通学路がどんな景色だったかもいまだに鮮明に覚えている。だから夢の中にもしょっちゅう登場するのだろうか。夢の登場人物はやはり父と 母である。時たま兄が出てくることもある。

 二つ目は電車の夢である。幼少期の山科の自宅は国道一号線(1970年前後に府道に格下げされた)に面していたのだが、道路の中央を路面電車の京阪京津 線が走っていた。それでわたくしは毎日電車を見て育った。小学生のころ、塾に通うのにもこの電車と京都市電を乗り継いで通った。現在は決して鉄道マニアの よ うな特別な愛着が電車にあるわけでもないのだが、不思議と電車に乗っている夢をよく見る。それに加えて、電車の中や駅で決まってだれかと何か話をしてい る。もちろんそれは日本語で。今度来る電車で目的地に行けるかどうかを見知らぬおじさんに聞いたりしている。

 三つ目は、楽団の中で楽器を吹いている夢である。わたくしは、中学から大学まで、吹奏楽部に所属してクラリネットを吹いていた。特に中学、高校では自分 の生活が吹奏楽部を中心に回っていると言えるほど熱中した。当時、わたくしは寮生活をしており、これまた刺激に富んだ日々だったのだが、どういうわけか、 今は不思議とその当時の寮が夢に出てくることはない。聴く方の音楽の趣味は専らオーケストラか室内楽だったが、そういうコンサートの客席にいるような夢は 見たことがない。しかし、吹奏楽団の中で楽器を吹いている夢はしょっちゅう見る。一人で吹いている光景ではなく、大勢の中で吹いている光景ば かり見る。最近、選曲をめぐって議論している光景も夢で見た。

 おそらく眠りの中で見る夢は過去の記憶が関係している場合が多いのではないかと思うが、創価大学に奉職して以降の最近15年間の出来事が夢に出てくるこ とは意外と少ない。ただ、自分が吹奏楽団の一員として楽器を吹いているときに、自分が創 大生のような気分で、学生たちといっしょに演奏している光景はときどき見る。それと、キューバを訪問した際に見たハバナ市の 海岸の光景も何度か夢に見た。そのたびに必ずだれかが登場して、何か語りあうのだが、これもしばしば創大生の教え子たちの姿だったりする。どうやら日本語 のよう ではあるが。

夢、そして、dream

 とりとめもなく、自分の夢について書いてしまった。夢は過去の秘められた記憶を呼び覚ましてくれると同時に、どこか未来につながっているのである。

 Longman Dinctionary of Contemporary English という英語辞書のdreamの 項を引いてみると、次のように書かれている。
 dream n @ a group related thoughts, images, or feelings experienced during sleep: A a group of thoughts, images, or feelings like these, experienced when the mind is not completely under conscious control: B a state of mind in which one does not pay much attention to the real world: C something that one thinks about and hopes for; aspiration:

 ここでもやはり、@は睡眠中の夢の意味で、A以降が派生的意味となっている。このうちのCが国語辞典のA に対応する未来への肯定的な希望、願望を表している。日本語でも英語でも同じように隠喩が定着して派生的用法となったことが伺える。人間は未来に向かって 一歩でも理想に近づいて行きたいと、誰もがそう思っている。それを「夢」という言葉に託すのであろう。

 わたくしにとって、ある意味でこのバークレーの生活は夢のようである。今いるこのアパートの光景もいずれ夢に見るのだろうか。そして、こうやって夢につ いての文章を書きながら、もうすぐ現実に戻っていかねばならないという緊張感を抱いている。いかに厳しい現実の人生といえども、過ぎ去って見れば夢のよう に一瞬の出来事なのかもしれない。わたくしが座右の銘としている日蓮大聖人の御書の一節に「一生は夢の上明日を期せずいかなる乞食にはなるとも法華経にき ずをつけ給うべからず」(御書全集1163n)との言葉がある。無我夢中で生きるということも漢字では「夢の中」と書くからこれまた不思議だ。われわれは にとって、大事なことは夢か現実かではなく、受動か能動かなのだろうと思う。受動的な夢である@の意味から、能動的な夢としてのAが派生したのだとした ら、理想に生きる人間という存在の、それは得難い長所なのかもしれない。



創価大学ホームページへ
日文ホームページへ
山岡ホームページ表紙へ