バークレー日記

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)


Dec/23/2005 パイオニア吹奏楽団に思いを馳せて



 一冊のアルバム


 今、手元に一冊のアルバムがある。わたくしが顧問を務めるパイオニア吹奏楽団の学生たちが、一年間の在外研究で渡米するわたくしのためにわざわざ作って くれたアルバムだ。何と彼らの代表がわたくしの出発に際して、わざわざこのアルバムを成田空港まで届けに来てくれたのだ。
 一人一枚ずつの色紙に団員学生の思い思いのメッセージが書かれている。そして、各パートの写真と全員の集合写真とが収められている。集合写真は男子も女 子もスーツ姿の正装だが、全員ガッツポーズで、笑顔で何かを叫んでいる。その一人一人の表情はどこまでも明るく、未来への希望にあふれている。色紙のメッ セージはどれも元気で前向きな創大生らしく、読んでいて気持ちが軽くなるような、はつらつとした言葉にあふれている。
 渡米以来のこの9ヶ月、これを開くたびに心が豊かになり、よしまた頑張ろうと思えるような、そんなありがたい、掛け替えのないアルバムであった。

 吹奏楽部との出会い


 創大の教員として勤務して16年目にして、本年の在外研究を迎えた。姉妹校の学園(創中・創高)で学んだわたくしは、ご恩返しのつもりで創大に赴任した の だったが、実際のところ、創大ではご恩返しどころか、学ばせていただくことのほうが多い15年間だったように思う。それはすべてにおいて創立者・池田 大作先生の人間教育の指針がキャンパスの隅々まで行き渡っていて、学生がそれに見事に応えていく、その姿に何度となく触れることができたからである。大学 院まで、研究者としての訓練しか受けてこなかった自分が、教育者として成長できたのは、創大でこの人間教育に触れたからこそである。そう思える大きな 出会いの一つが、この吹奏楽部・パイオニア吹奏楽団と過ごした日々であった。
 創大に赴任して2年目に当たる1991年からは吹奏楽部の顧問を拝命した。ちょうどその前年に前顧問の教授が逝去されて顧問が空席であったところに、中 学から大学まで吹奏楽の経験があるわたくしが若手教員として赴任したので、当時の高村学生部長が適任ではないかと吹奏楽部の執行部に紹介してくれたのだ。
 以来、吹奏楽部とともに過ごした14年間には宝の思い出がたくさん詰まっている。もちろんいいことばかりではなく、辛かったこともある。しかし、学生と ともに泣き笑いし、こんなにも大きな財産をいただけた大学教員はそうはいないのではないかと、心から感謝している。
 そのなかで、生涯忘れることのできない出来事を一つここに記したいと思う。それは5年前の2000年10月15日のことであった。

 歴史の一日を迎えて


 この年の9月3日、吹奏楽部は創部以来の悲願であった吹奏楽コンクール東京都大会で金賞を初受賞し、全国大会への初出場を決めていた。学生たちは後期の 授業に出席しながら、10月21日に上野の東京文化会館で行われる全国大会に向けて、毎夜、猛練習に取り組んでいた。その直前の15日に、創大の記念 講堂では卒業生の同窓の集いが開催されることになり、その実行委員会より吹奏楽部は出演依頼を受けたのだった。
 学生たちは全国大会という未知の舞台に立つ6日前に別の曲を演奏しなければならない緊張感はあったものの、日本全国から卒業生が母校に集ってくる大切な 行事への依頼を喜んで引き受けた。当日は二部構成の行事となり、第一部は同窓会、第二部として、創立者・池田大作先生に対するインド・ブンデルカンド大学 からの名誉文学博士号・終身名誉教授称号の授与式が予定されていた。
 吹奏楽部は客席の上手側前方の一角を陣取った。わたくしはこのとき、役員として楽団の最前列に着席していた。吹奏楽部は第一部の同窓会で一曲、幕間に一 曲を演奏した。その際、場内アナウンスは吹奏楽部が初の全国大会出場を勝ち取ったことを紹介。場内から大きな拍手が起きた。
 しばらくの待機ののち、第二部の授与式開始と共に創立者並びに来賓一行が入場する。目の前の上手側壇上には先方のブンデルカンド大学の総長はじめ来賓一 行が着席。創立者はじめ大学首脳は下手側に着席した。そして、式典の冒頭、吹奏楽部は記念演奏として、ワーグナーのタンホイザー大行進曲を演奏した。

 魂の激励


 荘厳な授与式が粛々と進行していく。先方の大学からの授与の辞につづいて、創立者に対する名誉称号の証書、ガウン、記念品が授与される。そして創立者が その場に集った卒業生への歓迎と、先方の大学一行に対する厚い謝辞をスピーチし、式典は感動のなか、終りを告げようとしていた。創立者は下手側から上手側 の来賓の席に歩み寄り、一行の方々の手を取って感謝の言葉を告げている様子だった。
 そのときだった。突然、創立者が客席側を振り返り、「吹奏楽団!」と声をかけられたのだ。学生たちは「はい!」と答えたが、驚きのせいかその声はまばら だった。予想外の出来事が始まったのだ。脇役に過ぎなかった吹奏楽部に、その瞬間から創立者がスポットライトを当てられて、彼らと創立者だけの異次元の空 間に誘われたかのようであった。創立者の強い声が響き渡った。

「弱い!お客さまの前でみっともない!もっと力強くやりなさい!大学の歌をやってごらん」

 まさか声をかけてもらえると思っていなかった吹奏楽部の学生たちの多くは呆然としていた。しかし、紛れもなくそれは叱責の言葉だった。「ああ、池田先生 が私たちを叱られている!」。全員が、うたた寝からたたき起こされ、突然に血の流れが逆流し始めたような瞬間だった。とにかく学生歌を演奏しなければ!数 秒のうちに準備が整い、学生指揮者の学生が力強くタクトを振り、勇ましい「創大学生歌」が始まった。みな、無我夢中で演奏した。まさに眠りから揺り動かさ れた吹奏楽部の演奏は、火の出るような力強い演奏となった。歌のワンコーラスめの数小節を演奏したところで創立者は「もういい、もういい」と演奏を止め た。そしてすべてを包み込む温かな笑顔で、「初めから、そうやればよかったんだよ」と学生たちに優しく語りかけたのだった。式次第にもなく、進行役員も想 定外の出来事はまだつづいた。学生指揮者を務めた女子学生に「もっと大きく振るんだよ」と激励されたり、もっと明るいステージ衣装にしてあげたいなと提案 をしてくださったり、その間、インドのお客さまを待たせたままの、たった数分間かもしれないが、わたくしたちにとって長い長い時間が過ぎた。
 創立者と来賓が退場され、すべてが終わって控え室に戻ってみると、部員の半数以上は泣いていた。創立者の温かい真心に包まれた喜びと大事なお客さまの前 で失敗演奏をしたという後悔と、いろいろなものが混じっての涙だったろう。猛練習の末に都大会で勝った誇り、そして心のどこかでその成果をほめてもらえる のではないかという期待、それがすべて逆になったことへのショックもあっただろう。その日の興奮はしばらく収まることがなかった。

 生命境涯の大切さ


 今振り返ってもそのタンホイザーが特別下手だったわけでもなかったように思う。ただ、上手に演奏しよう、きれいに聞こえるように演奏しよう、失敗しない 演奏をしよう、などと、内向きの小さくなった生命境涯での演奏だったことは確かだった。それは、大事なお客さまを心から歓迎しようとの思いも、会場に集っ た卒業生が元気になるような演奏をしようと思えるような生命境涯ではなかったのだ。大勢集った講堂内で唯一の現役学生であり、最も若い年代の参加者であっ た彼らが、その若さ、瑞々しさを発揮することなく、小さな演奏をし、逆に、70歳を超える高齢の創立者が、烈々たる気迫で学生たちの眠っていた魂を揺り動 かしたのである。生命力がなかったら、人に勇気と希望を与えることはできない。創大生の眼はどこまでも民衆の方向に向いていなければならない。一部のイン テリが満足するような小賢しい器用な演奏ではなく、絶望の淵に沈んでいる貧しく弱い人々に今一度立ち上がる勇気と希望を与えられるような、そういう演奏こ そが創立者が示された音楽なのである。コンクールという客観的評価を得られる場所で勝つことはもちろん大事だ。しかし、それが創大のクラブとしての最終目 的では なかったのだ。

 式典の冒頭だった吹奏楽部の記念演奏から1時間近くが経過しての出来事だった。その演奏の時点で創立者は学生たちの境涯を見抜き、彼らをあとで激励しよ うと思われたのであろう。しかし、式典でのスピーチといい、所作といい、大事な客人であるインドの方々への、心のこもった謝辞。場内に集った卒業生への歓 迎と激励。自分だったらどれか一つでも精一杯で他のことに神経を向ける余裕もないであろう。にもかかわらず、創立者は、式典では脇役に過ぎなかった学生の 演奏にまで心を配られ、全魂の激励をされたのである。その生命境涯の大きさが桁違いであることを改めて実感させられた。

 学業においても生命境涯は大切である。いかに才能豊かで、また、多くの知識を蓄えても、それを平和のために、社会のために役立てていこうという広い心と それを支える強い生命力がなければ、結局は知識におぼれ、名声におぼれ、せっかくの才能をも無駄にしてしまう。大学という高等教育の場で、すべてをプラス に活かしていける生命境涯ということを、創立者は身をもって教えてくださったのである。それは創立者自らによる魂のレッスンであり、真の人間教育の光景で あった。

 人生の師


 わたくしにとって池田大作先生は人生の師匠である。社会でどのように誤解され、中傷されようと、わたくしは生涯をかけて師匠の恩義に報いていくことを決 意している。もしわたくしが池田先生の弟子を名乗ることで自分自身も中傷されるようなことがあるなら、喜んで受けていきたいと思っている。そうであるなら ば、そのことがますますわたくしを奮い立たせてくれるであろう。仏典に「もし師が二度打たれるならばそのうちの一度は弟子が引き受けるべきである」という 主旨の言葉がある。そのためにはわたくし自身もどうしても力をつけなければならない。と同時に、同じ思いの同門の青年を一人でも増やしていかなければなら ないと思っている。
 一瞬にして人の心を揺さぶる、力強い勇猛の境涯。多くの事柄の本質、また、大勢の人々のそれぞれの本質を瞬時に見抜き、心に収めていける、広大なる智慧 の境涯。そして青年を慈しみ、その成長を願い、励まし続けていく慈悲の境涯。リーダーとして求められる三つの要素を兼ね備えているのが池田先生である。こ の日、多くの学生たちがそのことを実感したと思う。人生の師匠は他人から言われて決めるものではない。むしろ、誰に何と言おうと、批判されようとけなされ ようと自分の師匠はこの人だと自ら言い切れるものでなければ、師弟とは言えない。そして、そう言い切れる師匠を持つことほど、人生の尊い財産はないと確信 する。学生たちは今日、その第一歩を経験したのだ。

 永遠のテーマ曲


 その次の日の吹奏楽部の練習会場を訪れて、わたくしは驚いた。何と言っても音が力強さに満ちているのである。そしてサウンド全体が不思議な一体感に包ま れていた。振り返れば、都大会を終えてからの約40日という長いインターバルのなかで、中だるみの時期もあった。しかし、今この場には、あの創立者によっ て揺り起こされた魂の響きが紛れもなく充満していた。次の日も、そのまた次の日もそのサウンドがかすむことはなかった。

 10月21日、全国大会のその日、彼らは、創立者に教えていただいた通りの生命力に満ちた演奏を、堂々と東京文化会館のホールに響かせた。演奏終了とと もに、場内からはどよめきが起きた。誰もが勝利を確信した瞬間だった。そして、創大吹奏楽部は全国大会初出場で金賞を獲得し、まさに日本一の大勝利を獲得 することができたのだった。

 それ以来、「創大学生歌」は、吹奏楽部にとって永遠のテーマ曲となった。いかに優雅なクラシックの名曲を演奏する時でも、聴く人のもとに出向いて行って 心が一体になれるようなそういう強い生命力をもって演奏することを、学生たちは「学生歌」を演奏するたびに思い出すのである。それは確実に伝統となった。

 その年の12月、創立者は吹奏楽部に、平和・文化の開拓者たれとの思いを込めて、「パイオニア吹奏楽団」と命名してくださった。以来、既に五年が経ち、 あの2000年10月15日のその場にいた学生は全員が卒業してしまった。しかし、その創立者のレッスンと永遠の精神は見事に継承され、むしろ今日、その 勢いは年々増してきている。

 学問の目的


 2000年10月15日はわたくしにとってもう一つ意味があった。この年の3月にわたくしは出身校の筑波大学より言語学の博士号を取得した。そして、そ の学位論文を自身の最初の単著として出版することとなり、その発行日に指定したのがたまたまこの2000年10月15日だった。不思議な偶然の一致だっ た。

 わたくしは吹奏楽部の学生たちといっしょに自分も創立者の叱咤激励を頂いたのだと今でも思っている。プロの言語学者としての仕事を評価してもらうことが できた。こうやって本も出版できた。しかし、それがどうしたというのだ。まだまだ弱い!自己満足の研究じゃないか!人々に勇気と希望を与えられずして、何 のための研究か!何のための学問か!そう、叱咤されたのだと今でも思っている。吹奏楽部が全国大会に出場したからと言ってまだ目的は達成されていなかった ように、わたくしもまた、博士号を取り、本を出したからと言って人生の目的はまだ達成されていないのだ。そのことをわたくしはあの日、創立者から教えてい ただいたと思っている。その日は、わたくしにとっても人生の大きな原点の日となったのである。

 定期演奏会のCD


 12月24日はパイオニア吹奏楽団の 第31回定期演奏会の 日である。例年、わたくしはこの時期に体調を崩す。年末は非常に多忙な時期で睡眠不足で体力が 弱まり、風邪を引きやすくなるようだ。昨年も定演の前日に高熱を発し、マスクをして当日の会場に向かった。今年はありがたいことにすこぶる体調がいい。で きることなら飛んでいって彼らの演奏を聴きたい思いでいっぱいだ。特に執行部を務めた3年生(33期生)の労をねぎらってやりたい。しかしそれは叶わぬこ となので、遠くから大成功を祈ろうと思う。
 今、2003年の第29回定期演奏会のCDを聴いている。学生が作成してプレゼントしてくれたものだ。何度聞き返しても、彼らには彼らにしか出せない濃 密なサウンドがある。これこそ勇気の響きである。特別なことをしなくても、この楽団の一員として心を合わせるだけでこのサウンドは自ずと生み出されていく のだ。
 このとき彼らは4曲ものアンコールを演奏した。2曲目の「母」の何と美しく、何と愛情と感謝にあふれたサウンドなのだろう。毎年、聴衆のなかにいる母親 たちがこの演奏を聴いて必ず涙する。3曲目の「嗚呼黎明は近づけり」(旧制大阪高等学校寮歌)は会場じゅうの度肝を抜く、強烈な演奏だった。決断を前にし て勇気なく躊躇する友のもとに歩み寄り、お前を立ち上がらさずにはおれないと、その両肩を揺さぶり、渾身の励ましを投げかける、そういう演奏だった。そし て、4曲めはこれが本当に最後だったが、楽団のテーマ曲である「創大学生歌」であった。これほど長時間演奏をつづけ、大曲を何曲もこなし、つい先ほどの 「嗚呼黎明」では遠慮のない爆発的演奏をしたばかりである。常識的に考えて金管楽器奏者は唇が限界を超えているはずだ。しかし、彼らの学生歌は、そこから もう一度仕切り直しをし、この曲を演奏するために今日これまで頑張ってきたのだと言わんばかりの、とっておきの音を出す。彼らに秘められた不思議な力には もう脱帽というほかない。このとき彼らの胸中には、あの日に創立者から受けた生命のレッスンの光景が去来していたに違いない。
 興奮冷めやらぬなか、演奏会は幕を閉じる。拍手はしばし鳴りやまない。彼らの多くはステージから控え室に下がる途中にも、もはや涙ぐんでいる。しかし、 それはもう後悔の涙ではない。自らの可能性の限界を突き破り、師匠から教わったことを表現しきったことへの歓喜の涙である。
 社会に出てからもいちばん苦しいときに、今日のこの経験を忘れないでほしいと思う。もうダメだと思ったギリギリのところで、過去最高の力が発揮できるの である。人生を勝利してほしい。そしてその勝利の姿は今ここで自らの手でひとたび形となって表現されたことを生涯忘れないでほしいと思う。
 CDを聞き終え、今年の演奏会もこの伝統のうえに新たな歴史が刻まれることを願ってやまない。演奏会開始は18時。17時間の時差があるカリフォルニア では24日の午前1時だ。大成功と大勝利の演奏会を遠くから祈りたいと思う。



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