バークレー日記
山岡政紀(YAMAOKA Masaki)
Jun/8/2005 英語の世界(3) 多様性への寛容
さて、ちょっとしたクイズをしてみよう──英語に方言はあるのだろうか。日本では京都と東京とぐらいの距離でも、こんなに方言差があって、標準日本語を
学んだ外国人が京都で生活を始めたら、習ってきたのと全然違うのでびっくりするだろう。お店に行けば「おいでやす」「なにしまひょ」「おかけやす」「おお
きに」など、教科書に載っていない表現が続出する。アメリカの西海岸と東海岸の距離はその何倍もある。東海岸に首都ワシントンDCやニューヨーク、ボスト
ン、フィラデルフィアなどの大都市があり、政治経済の中心地が東海岸であるとすると、言語的にも標準英語は東海岸の英語で、西海岸には大きな方言がある
──ということになるのだろうか。
答えはもちろんNOである。少なくともアメリカ英語には、そういう意味での地域方言と呼べる変種がほとんどない。人々がまだ高速交通手段を発明する以前
に自然発生したのが、地域方言である。社会
言語
学で言う「方言」はより広い意味で用いられ、地域方言以外にも、さまざまな種類の社会方言があることが知られている。アメリカの場合、移民の国なので、英
語の生まれ故郷である英国で自然発生したような地域方言はない。その代わりに、地域方言よりも圧倒的に多種多様な社会方言や個人方言がある。この事情は
西海岸だろうが東海岸だろうが同じである。
アメリカに来て痛感することの一つに、実に多種多様な人種の人々が入り混じって生活しているということだ。私が出会ったUCBの学生にはブラジル人、フ
ランス人、インド人、ベトナム人など、さまざまな国からの学生が集まっていた。また、SGI−USAのメンバーにはナイジェリア出身の人もいた。そして、
アメ
リカ人の家庭に嫁いだ日本人女性たちにも少なからず出会った。どの人も流暢に英語を話すので、当初は彼らの英語に違いがある
ことに気づかなかった。しかし、少しずつ慣れてくるうちに、それに気づくようになった。まず気づいたのはインド人の英語である。インドの場合、英語は公用
語であり、母国で公教育を受けた際にも英語を用いていたはずである。だからこそ逆に英語の発音に独特のくせが残っているのだろう。日本人の英語も、アメリ
カ人と同じスピードで話していてちゃんとコミュニケーションが成立しているのを見ると上手だなあと感心するが、こちらの耳がだんだん慣れてくると、やはり
日本語的な発音になっていることが少しずつわかってくる。出身国もさまざまなら、その人の英語歴も千差万別である。アメリカ人の標準的な英語がきちんと存
在しているそのうえで、いろいろな種類、いろいろな程度の英語もたこの地には乱れ飛んでいる。やはり、国際化時代の世界の中心となっていく国はアメリカだ
なと実感する。いや、もうなっている。既に世界の大往来時代を先取りしている。言語的にも、欧州の一国である英国からの移民が持ち込んだ英語ではもはやな
くなって、国際共通語としての英語をまさに公用語としているのだから。
日本はあれほど地域方言の変種が多いにもかかわらず、外国人の流暢でない日本語に対して不寛容なところがあるように思う。ちょっと極端な例を思い出し
た。以前、中国で行われた日本語教育シンポジウムに参加し、日本から来た大学教授たちと会食懇談した折りのこと、ある教授が、シンポジウムのなかで中国人
の教授たちが
使っていた日本語が間違いだらけだとあげつらって、笑いのネタにしていたことがあり、非常に憤慨した。たとえ場所が日本であっても、日本語を学んでくださ
る中国人に
対しては敬意を表しこそすれ、間違いを笑うなどというようなことは言語道断である。まして、中国を訪れて現地の方の歓待を受けながら、自分の中国語は片言
程度で
あることを棚に上げて、大切な友人の方々の日本語を嘲笑するなどとは、全くもって無恥無慚の極みである。ここにその人物の実名を記して晒し者にしたい衝動
にかられるが、当面それは控えておく。それにしてもそのような人物に日本語教育の専門家を名乗ってほしくない。植民地時代の言語帝国主義を彷彿とさせ、誠
に忌まわしい。そう言う私自身も、たまたま仲良しグルー
プに一人よそ者が混じったような状況だったこともあって、終始黙していたのだが、どういう状況であれ、その場にいながらその発言を制止し、諌められなかっ
たことを
深く悔いている。次にそのような機会が訪れたら、それがだれであれ、絶対に制止し、発言を撤回させたいと深く決意している。
いささか極端すぎたが、それほどでなくても日本人は総じて、外国人の中間言語(※)に不寛容である。1988年、国立国語研究所所長の野元菊雄所長(当
時)が「簡約日本語」
という、いわば“フォーマルな中間言語”を考案し、物議を醸したが、そうでもしなければ中間言語が受け入れられないという日本社会の実状が背景
にあったように思う。だから逆に日本人が海外に出ていく際も、日本語が話せる、あるいは通訳できる相手を探して、堂々と日本語で済まそうとするか、さもな
ければ、海外に出ること自体を避ける傾向があるように思う。確かに日本人の英語のレベルが高くないことは有名だが、それにしても長年学んできて、文法や語
彙を知っているのだから、へたでもいいから使ってみるべきである。恥をかくことを恐れてはならない。
その意味で、アメリカのように外国人の英語に慣れている社会は、ブロークンな英語だと言って笑う人は一人もいない。創価大学を卒業してすぐに渡米し、現
地の女性と結婚して既に20年以上、この地に暮らしている同世代の方と出会った。今では完全にアメリカ社会に溶け込み、アンドリューという英名まで持って
いる。私が、自分の英語がへたで恥ずかしいと言ったら、彼はこう言って励
ましてくれた。「アメリカ人は、外国人が話す英語の文法がどうとか発音がどうとか、全然気にしていませんよ。何を言おうとしているのか、その内容にひたす
ら耳を傾けているんです。だれでもそうです」と。とにかくしゃべりにしゃべって、英語を話す人々と意思の疎通を繰り返しているうちに、次第に相手の話して
い
る英語に近いものになっていくのだろう。その意味でも自分はもっともっとへたな英語をしゃべりまくらなくてはならないと決意している。長年、日本独特の文
法
偏重の英語を学習しつづけてきた副作用か、わかってはいても「恥ずかしい」感情が反射的に湧いてくる。それでもいいから、もっと恥をかけ、恥に不感症にな
れと、自分に言
い聞かせているところである。
注 中間言語(interlanguage) 言語教育学の用語。第二言語学習者が習得過程の中間段階において話すことば。文法、語彙、音韻などの面で
誤用を多く含んでいる。
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