バークレー日記

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)



Jun/1/2005 英語の世界(2) アメリカに嫁いだ日本人女性たち


 先日、英語について思うことを書いたが、書いてみたあとでさらにいろいろなことが思い浮かんできた。英語に関する話題はいくらでもありそうだ。それ で、これもシリーズにすることにした。

 こちらに来てから、日本人でアメ リカ人の家庭に嫁いで子どもをもうけて幸せに暮らしている女性に何人も出会った。どの人も、英語が上手だなあと感心するばかりだったが、当人たちの口か ら、渡米当初、英語ができなかった苦労談ばかりでなく、今も英語が完全で ないために、自分の子どもとの間で意思が通じなくて困ることがある、などの話を聞き、新たな一面を知った。そういう目で改めて見直してみると、なるほどた しかに発音も日本語的 だし、文の構造や長さも比較的シンプルな表現しか用いていないことに気づいたりする。それでも自分よりはるかに流暢に話していることには違いがないのだ が。 それに比べて、そういう人たちがアメリカ人との間に生んだ子どもの英語は全くナチュラルな標準アメリカ英語である。そしてその子たちのほとんどは、母親の 母語である日本語が話せない。日本語が母語で、あとから英語を第二言語として覚えた母親と、生まれながらに第一言語として英語と接触している子どもたちと では身につける英語の質がまるで違うのだということも、この人たちに触れて実感できた。

 それにしても、慣れない異国の地の家庭に入り、自分が産んだ最愛の我が子とのあいだでさえも、自分の気持ちを最も自然に伝えられるはずの日本語を使わ ず、一生英語の世界で暮らしていく、そうした母親たちに対しては尊敬の念以外にない。私が見る限り、彼女らの家庭に共通しているのは、夫婦の愛情が深く、 夫が妻を愛し、守り、支えている姿がはっきりと見て取れることである。異国の地に来た妻が不安を乗り越える第一の原動力となっているのは夫の愛情だと確信 する。逆にもし、そうした境遇で夫の愛情が失われたりなどしたら、どれほど苦しい状況に突き落とされるか、そういうドラマにはまだ触れていないが、想 像するだに恐ろしい地獄絵図だろう。そうなったら自分を支えるのはもう自分しかいない。

 そう言えば、外国語の最大の上達法はその言語を話す恋人を作ることだと聞いたことがある。たしかに、恋人とは一日に何時間話していても飽きないものであ る。慣れない英語を話す苦痛を、好きな人と話している喜びが相殺してくれるのだろう。それに、自分のすべてをさらけ出せる恋人とのあいだで、へたな英語を 使うことの恥ずかしさを気にする必要もまったくない。そして、好きな人が話す言葉なのだから、その言葉も好きになり、一生懸命覚えようとするだろ う。そうしてみるみるうちに流暢な英語を身につけていくのだと思う。

 私の場合、日本に妻子を残し、単身でアメリカに来ているが、さすがにアメリカ人の恋人を作るというわけにはいかないし、また、その気もない。まあ、物事 の重要性から考えれば、目的が反対で、外国語上達のためだけに恋人を作ろうなどというのは不謹慎であり、結婚前だろうと後だろうと、そういう発想は持たな いほうがよい。逆に、そうした愛情深い家庭の姿に触れ、我が家も学ぶべきと思うことのほうが多い。

 彼女らがどういう経緯で夫と出会い、結婚を決意するに到ったのか。その馴れ初めなどを聞く機会には今のところ恵まれていないが、きっといろいろなドラマ があったのだろうと思う。一つ言えるのは、アメリカにはそういう国際結婚の家庭が至る所にあるので、社会全体がそれを当然のように受け入れる土壌があるこ とである。日本にも日本人家庭に嫁いだ外国人妻がいるが、日本の社会はそういうことにまだ十分慣れていないので、環境的にはアメリカより数段落ちるのでは ないだろうか。日本でそういう家庭に出会ったら、応援してあげたいと思う。

 また、いろいろな目的をもって渡米してきている独身女性にも少なからず出会った。なぜか、ここで出会う日本人は男性より女性のほうが圧倒的に多い。独身 女性でもアメリカ人男性の恋人がいる人は、そうでない人よりも格段に速く英語が上達していることをまざまざと見せつけられると、少々複雑な心境になる。ア メリカ人男性と恋に落ちるということは、それだけの人生の大きな困難に入っていく可能性をはらんでいるのだから、一概にどちらがハッピーとは言えないと思 う が、当面は恋人を作らずに一人で奮闘している人のほうを応援してあげたい気持ちだ。一人で頑張ってもこれだけ英語は上手になるのだという見本を作って くれたほうが、あとから来る人たちへの望ましい励みになるだろう。もっとも、恋というものはいつどこで、どういうきっかけで生まれるかはわからない。日本 人妻の人たちも、もともと英語が目的だったわけではなく、結果として英語の世界にどっぷり入って来ている人ばかりだろう。そう考えてみる と結局、強く生き抜いていかなければならないということは、どの地であれ、どの境遇であれ同じということかもしれない。




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