バークレー日記
山岡政紀(YAMAOKA Masaki)
May/18/2005 英語の世界(1) 生きた英語に触れて
自分が中高時代以来、いかに英語が苦手だったか、そのことが自分の進路をも左右したということを書いてみようかと思ったが、まだまだ完全に苦手意識を払拭しきれていない今の自分が書くより、もう少しレベルアップしてからにしようと思い直して、それはやめることにした。
それはそれとして、ともかくも生きた英語の現場に来てみると、やはり習うより慣れろとのことわざどおり、机上の学習では習わなかったことが洪水のようにあふれている。まさに英語の海を、おぼれないようにへたな平泳ぎでゆっくりと泳いでいるような感覚である。
近所のカフェで初めてパンとドリンクを注文したときに、「フォーヒアオトゥゴー?」と聞かれた。こうやってカタカナで書くとますます何のことかわからないが、"For here, or to go?"と言っていたのだ。日本では「こちらでお召し上がりですか」と訊くのが普通で、長いから「それともお持ち帰りですか」とまでは言わないが、英語はシンプルで便利だ。私はともかく"here"という単語だけは聞こえたので、"Here."と答えて、とりあえず用は足りたが、本当は"For here."と答えればよかったのだ。惜しかった。
雑貨店や電気店で品物を決め、購入を店員に申し込むときに何と言えばよいか。そんな単純なことも、日本の英語教育では教えない。私は最初に"I decided to buy it."と言ったのだが、この際ついでに訊いてみようと思い、そういうときにふつうはどう言うのかと店員に尋ねてみた。"I'll take it."と言うのだそうだ。1秒で言える簡潔な表現だ。あんなまどろっこしいことを言う必要はなかった。
とにかく現場に来てみてはじめてわかる表現がたくさんある。日本語の「ね」や「さ」などの間投詞のように、「合いの手」としてはさむ表現も、ほとんどまともに習ったことがなかったが、こちらに来てみると、"Sure." "Right." "You know." "OK." "Un-huh." "Yeah." "Really?"など、けっこう多用されている。教科書の堅い英語とは異なる、生きた人間味のある英語というものが、自分に英語への親近感を与えてくれている。
以前、英会話の上達の秘訣は何かと、アメリカで7年間留学生活の末に博士号を取得し、流暢な英語を話す友人に尋ねたことがある。彼は少し考えたあとに、これという王道はないのだけどと言いたげな表情で、とにかく長い時間英語に触れることしかないと思う、と教えてくれた。そのときの私の印象は、何だかありきたりの回答だなと思ったが、実際に現地に来て長い時間英語に触れていると、彼の言っていたことが実感としてわかる。特に、生きた言語の音を聴くという経験が非常に重要だと思う。
言語教育学や大脳生理学の知見とは無関係に、自分の直観でこのことを表現してみると──我々の脳みそには言語の意味をキャッチする溝があるのだ。生まれた時から触れている母語(私の場合、日本語)の溝はものごころがついたときにはもうできている。しかし、未知の外国語に対する溝は脳みそにないから、聞こえてきても素通りして流れていくだけである。右の耳から左の耳にノンストップ通過である。
外国語学習の一つの要素は、その言語の溝を脳みその中に作ることである。未知の外国語の録音テープをただ流して聞き続けるだけでは、溝はできず、ぜんぶ素通りするだけだ。しかし、聞こえてくる音と意味とを結びつける作業を繰り返していると、右の耳から左の耳に抜ける間にそれを脳に中に引きとめて、意味を脳みそに残していく溝となる。最初はゆるやかなしわのような溝で、ところどころの単語が聞こえる程度なのだが、次第に文単位の、より構造の複雑な意味として脳みそに残るようになる。そういう経験を繰り返しているうちに、完全にその言語の溝が脳みそにできたら、その人はもうその言語の完全な話者になっている。確実に聞き取れる言葉は自分でも話せるようになるはずだ。
英会話テープもこちらに来てから毎日聴いているが、ただ聞き流すのではなく、意味を取りながら聴くようにしている。ただ、この作業は集中力を要するし、普段使わない筋肉を使うようなもので、たいへん疲れるのも事実である。したがって、肉体的に疲れていて集中力を欠くようなときは、脳みそがツルツル状態になり、ほとんど英語が素通りしていくような感覚を覚えることがある。逆に体調もよく、精神的にも充実していると、その分、脳みそにギュッと溝ができて、聞こえてくる内容が全部クリアにわかったりする。
そしてやはり、教材や英会話テープでの勉強よりも、実際の生きた現場で聴いたことの方が数倍インパクトとして残る。脳みそに溝をつける効果としては抜群である。赤ん坊が自然に言語を覚えるのは、聞こえてくる言葉と自分の経験とが結びついて、自然とそこに「意味」が発生するからだろう。赤ん坊に、ある言語の録音テープを長時間聴かせても話せるようにはならないと思う。経験と結びつかないからだ。もちろん、英会話テープが全く効果がないわけではない。聞こえてくる言葉の意味を毎度確認しながら、実際に自分がその場でその表現を使っている感覚、いわば、劇のせりふを覚えているようなつもりで、声に出す練習をすれば、疑似経験として脳みそに溝を作る効果はあると思う。ただしそれも「きれいな英語」であって、本当の「生きた英語」ではないことは心得ておいた方がよいと思う。
人間の脳みそは経験を蓄積するようにできているようである。飲食物の味にしてもそうだ。人間は食べ物を目で見たときに、既にその味をイメージしている。もし、実際に口にしてみたときの味がイメージと異なる味だと、たいてい脳みそは「まずい」と感じるようにできているようだ。私の趣味の一つに「いろんな種類のお茶を味わうこと」があるが、中学生ぐらいの頃だろうか、生まれて初めてウーロン茶を飲んだときに、「まずい」と思い、ほとんど飲めなかったことをはっきり覚えている。しかし、慣れていくうちに、感じている味は同じなのだが、それを「おいしい」と思うようになった。ウーロン茶を受け入れる溝が脳みそにできたからだ。大学時代に韓国人留学生から高麗人参茶をもらった。最初の一口は、やはり「まず」かった。しかし、捨てるのはもったいないと思ったので、我慢して毎日飲んでいたらそのうちやみつきになった。この二つの体験から未知のお茶の味に触れて、次第に慣れていく自分を体験することが趣味のようになった。何年か前に、初めてプーアル茶を飲んだ。これまた「まず」かった。しかし、つづけて飲んでいればおいしくなるということを経験上知っていたので、我慢してつづけて飲んだ。案の定、だんだんおいしくなった。今では、ウーロン茶も高麗人参茶もプーアル茶もそれぞれの個性で優劣がつけられないほど、どれもおいしいと思っている。
外国語学習はお茶の味に慣れることよりももっと複雑で、時間も要するが、しかし、原理は同じではないかと思う。長い時間触れていれば、絶対に慣れるのである。そんなものに得意不得意や向き不向きなどありはしない。あるのは自覚において不得意だと思い込んでいたりするだけだ。大学受験英語のような文法偏重、読解、翻訳など、読み書きに限定したときに得意不得意というものが発生するのだろう。私自身も大学院時代に英語の文献を嫌というほど読んだが、読み書きには言語が本来持っているリズムやスピードというものがまるでない。英語の音の世界に慣れることで、最近、読むスピードも上がってきたように思う。やはり、脳みそに言語の溝を作るのは文字言語ではなく、音声言語なのだと思う。創大生にも自分の体験を通して、大いに「語学のススメ」を講じられるように、英語への苦手意識の克服という当面のゴールまでは達してから帰国したい。
中高時代のかつての自分ならアメリカに住むなどということは、英語が苦手だという一点で恐怖心すら覚えるほどだったが、今こうやってアメリカに来て英語の世界のなかに自分がいることは、一種の快感となっている。たしかに疲れるし、意思が通じないときの苦痛などもあるのだが、それを繰り返すことが経験なのだと思えば、それも快感に思えてくる。せっせせっせと脳みそに英語の溝を刻み込む毎日である。
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