東欧諸言語の研究で知られ、東京外国語大学教授としても多くの後進を育成した言語学者・千野栄一氏(2002年に逝去)による言語学入門書。ブックレットや月報などに連載した随筆風の小論を集めたもので、体系的に編まれたものではない。しかし氏の博学さは、その研究業績として知られている専門分野の東欧諸言語研究にとどまらず、非常に広範囲にわたっており、そうした博学さが惜しみなく表現されている本書のような小論集は、一般の読者にとってはむしろ圧倒的におもしろく読めるだろう。
氏の博学さには三通りの意味があると思う。一つは、東欧諸語のみならず、世界中の言語事情に精通しているということ。本書にもシベリアの言語であるカフカース諸言語や台湾東部のアタヤル語など、いわゆるマイナー言語についても小論が収められている。
二つめは、多くの部門に分岐している言語学のなかで、氏は、主に取り組んだ音韻論、形態論だけでなく、その対極にある意味論、語用論がどういう性質のものであるかについても熟知しているということ。本書では、大学で言語学概論を教える時に感じた困難さも述懐しているが、それは言語学という学問の広範さを知るがゆえであり、しかも最大の難敵である意味論に対するアプローチの難しさを知るがゆえであった。
三つめは、過去・現在の世界中の言語学者がなしてきた仕事を広範囲に知っているということである。その意味では言語学史の生き字引のような人でもあった。しかも本書では、ただ過去の言語学者の著作を紹介するだけでなく、そこに遠慮なく優劣をつけて見せ、刊行から五十年以上経った今日でもなお、その構造主義的分析手法が色あせていないというエドワード・サピアの『言語』や、これまでの対照研究書として最も優れているとした、英語とチェコ語の対照である『マテジウスの英語入門』を、確信をもってべた褒めしているところなどは、多くの研究書を読みあさり、内容を熟知しているがゆえの確信を感じさせる。
今日の日本で言語学者を名乗っていても、実態は英語学者であったり、日本語学者であったり、はたまた音声学者、文法学者であったりする人が多いなかで、この人ぐらい「言語学者」と呼ぶのにふさわしい人はなかなかいまいと思う。20世紀の日本で最も言語学を楽しんだ人と言えるかもしれない。その氏が書いた本書につられて読者も言語学を楽しめればしめたものではないか。