山岡政紀 書評集No.78


『哲学者クロサキのMS−DOSは思考の道具だ』  黒崎政男著/1993年2月9日発行/アスキー出版局


 パソコン雑誌『月刊アスキー』の同名の連載を一冊にまとめて出版したもの。コンピュータについては素人だという有名人にコンピュータを習わせて、連載を書かせるという企画、という点では、『ASAHIパソコン』に連載された「俵万智のハイテク日記」(同名の書籍として1992年2月に朝日新聞社より刊行)の二番煎じのように見える。しかし、「俵万智……」が、パソコンをいじりながら感じたことを率直に述べたエッセイであるのに対し、「哲学者クロサキ……」は、現代文明の一要素としてのパソコンが、人間の思考にどのような影響を与えたかということを、明快な論旨と整然とした構成で述べている点で、より完成度が高いと見る。もちろん、評者は密かな俵万智ファンであり、彼女の感性や文体のセンスに敬服しているが、しかしそれは個人的関心の域を出ない。一方、黒崎政男は、本来の哲学研究者としての素養を存分に発揮し、本書を一般性の高い文明批評として完成させており、より多くのパソコン・ユーザーの眼に耐えられるであろうし、さらにはパソコンの素人でも現代社会に関心のある人には、ぜひ一読を薦めたい。

 それにしても、黒崎が短時日の間にパソコンを使いこなしていく過程からは、彼の飲み込みの早さ、センスの良さが読み取れ、やはり並みの素人とは違うことにまず感服した。それによって、理系学者にありがちな事実の記述のみの羅列でもなければ、文系学者にありがちな言葉の積木でもなく、ほどよい程度に中間的である。また筆者は、連載開始以前に筆者自身が置かれていた状況を「一太郎鎖国時代」と呼んでいるが、現在まだ開国をしていないユーザー、つまり、パソコンをワープロ専用機同然に使っているユーザーに本書を読ませたら、何割かは開国すること請け合いである。その意味で、心理的なパソコン入門書ともなるだろう。

 まず、日本語ワープロの我々に与えた恩恵は、清書機能ではなく、編集機能の方にあることは、ワープロ・ユーザーなら誰でも実感することだが、筆者の指摘はそこにとどまらない。我々が文章を著そうとする際に、言語の持つ線状性に支配され、そのため線状的な思考形態を強いられてきたが、ワープロの出現によってその線状性から解放され、カオス的思考をそのまま、すべてワープロ画面に載せていくことができる。言い換えれば、言葉にする前の思考の整理を、思考そのものを言葉の断片にして、画面上で整理することができるわけである。筆者はこれを、直列的思考から並列的思考への変化と称している。

 しかし、それは鎖国状態でも可能な領域である。そこを開国し、MS−DOSの次元に降りていった時に、世界がどれだけ広がるか。学者である筆者は、鎖国時代に書きためた膨大な文書の整理について、圧縮によるアーカイバと、grepなどの検索ツールの使用という二つの方法を用いているが、これらも、鎖国状態ではできないことである。

  さらに、CD−ROMなどによって大部の古典が電子テキスト化されれば、それに対して検索ツールを用いることによって、老学者が一生をかけて行った調査を一瞬にできてしまうわけで、人文系学者の研究のスピードを飛躍的に速めるとともに研究の質を変容させるものであるとしている。また、パソコン通信についても、情報の入手、交換を、強力にパワーアップするものであり、人間の時間感覚に大きな変容を強いるものであると論及している。このあたりが文明批評と言えようか。

 一方、MS−DOSの入門書的な側面についてはどう書かれているか。多くの家電製品が機能の統一を内部的に持ち、用途に即した簡潔なインタフェースが与えられているのに対し、MS−DOSの次元まで降りたパソコンにおいては、使用者がその目的に従って、自らインタフェースを構築することが任されている。これがパソコンを素人にとっつきにくくさせていると同時に、逆にその使用法を習熟すれば、実に柔軟な道具となることが指摘される。その意味ではワープロ専用機は家電製品の域を出ていない。具体的には、ハード・ディスク内のディレクトリをどのように構築し、どのようなソフトを配置するか、そして、どのようなバッチ・ファイルを書くか、などの面倒さであり、また、おもしろさのことである。このことは、人間と機械との関りに対しても一つの大きな変化を与えているわけである。

 つまり、哲学研究者である黒崎が、パソコンを道具としていかに自らの研究を質量にわたって前進させていったかに関する記述は、同業者に研究の方法論の秘術を開陳するという面もあるが、むしろ、それを参考として、多様な目的を持つ人々がそれぞれの目的に即して、自由にこの道具を使いこなすことを勧めていると見るべきである。つまり、人間がなし得る仕事の可能性に対して、一つの希望を与えてくれたわけである。


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