山岡政紀 書評集


『人間主義経済学序説』 後藤隆一著/循環社会研究所発行/新思索社発売/2007317日発行/2200

 後藤隆一氏が前著『蘇生の哲学』(2004)に続き、人間主義経済学のパラダイムを強固に主張した、哲学的経済学の好著。一貫した主張内容や最終的な結論は共通しているものの、前著では哲学に比重を置き、既存の経済学と切り離して論じたのに対して、本書は一貫して既存の経済学理論を批判し、その反作用として人間主義経済学を打ち立てるような論法を採っている点で異なっている。近代経済学の方法論を熟知している著者がなぜそのような哲学的主張に到ったのかについての説得力、特に同学の経済学者に対する影響は本書の方が圧倒的に優っていると言えるだろう。

 著者が経済学に対して取っている立場は、パラダイム論的である。具体的に言うなら、近代経済学はアダム・スミスの理論を 基盤として緻密な理論体系が確立しており、経済学者はそうした理論のいわば内側に生きているものだが、本書の立場では既存の理論の外に一旦出て、外側から批判を加えている。それはまさに、トマス・クーンが自然科学の方法論そのものをパラダイムと評して批判を加えていったのに似ている。そのことが、専門の経済学者とわれわれ経済学の門外漢とを、共通の哲学的議論の場へと導き出すだけの普遍性をもたらしている。

 既存の経済学理論において確立された、実証的に事実を測定する方法論は、自然科学を模倣している。そのことが経済学の科学らしさを支えており、経済学者たる者、こうした実証的な方法論を用いなければ非科学的の誹りを受けることになる。しかし、本書において著者は、そのように経済学の方法論が、近代自然科学と同様に人間的要素を排除して成立していることを敢えて批判する。

 例えば、商品の価値は交換の媒介である貨幣によって数値化され計測される。そして需要と供給の均衡によって商品の価値の決定は自然法則と見なされる。需要とは消費行動であり、供給は販売行動である。しかし、これらの過程は、個々の人間の生活や生存にとって商品が有する真の意味での価値を捨象することで成り立っている。
 ここで評者なりの具体例を挙げてみよう。これまで誰も聞いたことのなかった美しい音色を発する楽器が発明されたとする。多くの人々がその発明を歓迎し、賛嘆したとしても、希少な木材が使われていてコストが高いうえに、その楽器の演奏が困難でなかなか買い手が付かなかったとしよう。需要は低く、 楽器の生産数は伸びない。しかし、その楽器の価値は、消費に動かない人々の心の中に歴然とある。さらに重要なことはそうした美的価値は当然ながら個人差があるだろう。かくして、人間にとってのその楽器の主観的価値はとうてい数量化できない代物だと言うべきなのである。

 親子に代表される肉親の愛情や、友情、信頼、恩義といった、さまざまな人間的価値、そして、究極的には生命それ自体の尊厳観まで、私たちの日常には、心の中に確かにあるにもかかわらず、まったく数値化には堪えない主観的価値というものが、さまざまに存在している。本書はそういった人間的価値の復権を経済学の内部にもたらそうとする前衛的、革新的な主張であると言えるだろう。

 もう一つ注目しておきたいのは、スミス経済学による自由主義経済も、マルクス経済学による社会主義経済も、いずれも欲望と闘争を原理とする唯物的思想であるとし、そのことを近代経済学の限界として批判している点である。人間は常に自らが欲望を行動原理とし、最大の利益を得ようとして他と競争するものであると一般化し、それを前提とした経済学理論は、人間の生き方における“規範性”というものを全く無視している。しかし実際の人間は、自らの欲望に対して葛藤したり、自らの欲望を律して他者との調和を図ったりなど、個人においても機会においても一様ではない振る舞いをする。そのことに目をつぶって非常に平面的な欲望の一般化を行うのは、ある種の人間機械論であり、人間の実態を的確に把握しているとは言い難いのである。要は、人間の人生には自身を律しながらよりよい生き方をしていこうとする“規範性”があるのである。他者のために奉仕しようとする生き方も、仮に売名行為であれば、結局自身の利益が最終目的であるような偽善的行為ということになるが、ある種の宗教的信念に基づくならば、本質から利他の振る舞いが可能になることも厳然たる事実である。

 このように人間の生き方の規範性を前提とする経済学理論が人間主義経済学であるとするならば、それは人間が欲望を超克して大我に生き得る存在であることを前提とした実践的でダイナミックな理論──仮に人間革命経済学──と呼んでもいいかもしれない。


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