キーワード:網野善彦、宗教学、歴史学、アジール、非農業民、天皇制、追悼文
《書評:400字版》
2004年2月に逝去した歴史学者・網野善彦氏の甥に当たる宗教学者・中沢新一氏が、叔父との出会いから50年近い歳月の対話を記した長文の追悼文。二人の親戚関係が決して偶然ではなく、いかに触発し影響し合ってきたかが伝わる好著である。
網野史学を一言で言うなら、日本が農業社会を形成する以前に存在したアジールとよばれる宗教的不可侵領域に着目し、そこから日本民族の原意識を読み取ろうとしたものである。その記述に際して網野は、人間の営為に対する生き生きとした感性や、日本の精神を読み解く知的刺激をもって情緒豊かに表現し、あたかも文学作品のようであった。
そしてそれは、中沢新一氏の音楽的な語りにも受け継がれている。中沢氏が宗教を見つめる目もまた、おのれを生み育てた空間の精神性に対する豊かな感性に満ちているのだ。人間の精神を対象とする人文科学において客観性などというものはあり得ないという網野氏の確信的な姿勢を称え、継承しようとする中沢氏の内心において、網野氏はもはや叔父を超えて師であることが本書には示されている。
《書評:1800字版》
2004年2月に逝去した歴史学者・網野善彦氏には、実に多くの追悼文が記されたが、宗教学者・中沢新一氏が月刊誌『すばる』に三回にわたって記した追
悼文ほど、網野史学の本質を的確に語ったものはなく、また、これほど情感のこもったものはなく、そしてこれほど“長い”追悼文はないのではないかと思う。 そして、それを大幅な加筆を施して一冊の新書として発刊したのが本書である。
本書は、中沢氏が五歳のときの、父の妹である叔母の結婚相手となった網野氏との出会いに始まり、今際のきわまでの、実に50年近い歳月の二人の対話を記
し、文章に遺している。彼らの日常会話には、網野史学の思考形成の過程、絵にたとえるならば下書きのデッサンのようなものが実にあふれている。そ れは決して客観的な資料とは言えないかもしれないが、今後の網野史学探究者にとってもゆくゆく大きな価値を生じるものと思う。
この二人の親戚関係というのも、よくできた偶然のように思えたが、本書を読むとそうではないことがよくわかる。中沢氏がいかに幼少期から、叔父・網野氏
の歴史を探究し、人間を探究する、その情熱に強く触発されてきたかが、彼らの対話、そしてそれを回想しながら語る中沢氏の熱い言葉の端々から見事に伝わっ てくるのである。あの叔父あってこの甥あり、なのだ。それだけでなく、中沢氏が成人してからは互いに触発し影響し合う、よき学友の関係にあったとさえ言え
るほどなのだ。
代表作『無縁・公界・楽』(平凡社、1978年刊)に象徴される網野史学を、一言で表現せよと言われたら、日本が組織立った農業社会を形成する以前の非農業民の生活の中に、アジールとよばれる宗教的な不可侵領域があることに注目し、そのなかで権力や組織から解放された人間の真の自由が表現されていたその
有様を調査・解明して、そこに日本民族の原意識を読み取ろうとしたもの、と言えばよいだろうか。
まさに網野史学は民俗学の研究手法を駆使し、宗教学の知見を援用した、懐の深い歴史学であると同時に、その論述においては文芸作品さながらの情緒豊かな
表現をもって形にしていく。まさに、人間の営為に対する生き生きとした感性や、日本の精神を読み解く知的刺激の喜びを隠そうとしないのが、その魅力の要素 でもある。そしてそれは、かつて東大教授会に非学問的と揶揄された中沢新一氏の音楽的な語りにも受け継がれていると見てよいだろう。中沢氏が宗教を見つめ
る目もまた、人間であるという本質から発する情念、祖先から受け継がれ、おのれを生み育てた空間の精神性に対する豊かな感性に満ちているのだ。
客観性を宗とする自然科学に対し、いかなる科学にも完全に純粋な客観というものはあり得ないと主張したのはT・クーンのパラダイム論である。しかるに網
野史学の場合は、自分はこういうパラダイムで人間の精神を読み取っていますと、堂々と宣言しながら語っていく、逆説的かつ確信犯的な主張が込められてい る。人間の精神を対象とする人文科学において客観性などというものはあり得ないというのが彼の立場であり、そこに、単に史実の解明にとどまらない、人間精神誌としての彼の史学の特徴があるのだろう。そしてまた、甥・中沢氏との対話には、そうした共通の土壌を有する人文科学である、歴史学と宗教学との、図ら
ずしてなされた接点、あるいは融合とも言うべきものが見て取れるのである。
それでいて、本来の歴史学の手法を堅実に踏まえ、予断を持たずに対象に接していく厳格さもまた網野史学の特徴であり、その意味での客観性と主観性の絶妙
のバランスは見事である。そのことが再確認できて興味深いのが、天皇制を見つめる彼の眼差しである。コミュニストであった網野氏の義兄(中沢氏の父)との あいだで、天皇制を論じる彼の目は、天皇制が是か非かという議論をする以前に、非農業民の精神と不可分に結びついていた天皇の位置に虚心に注目する。そし
て、天皇制の歴史的必然性を、日本人の精神の本質として描き出して見せ、天皇制廃止論者だった義兄を感服させる場面がある。それは、後の時代に強大な権力 と結びついた天皇とは違う、天皇の原型の姿であり、彼は決してそれを述べることで何らかの政治的主張をなそうとしたのではなかったのだ。
かくして鋭い知性と豊かな感性を併せ持った網野氏の真実の姿がこの一冊の本に表現されたと言ってよい。それは中沢氏が自らの思考形成を語ったある種の自
叙伝でもあったのだ。そして、語り合うことの重要さ、知の触発の喜びをも本書は伝えていると言えるのではないだろうか。
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