生命の尊厳――この言葉の意味を私たちはどうとらえているだろうか。
昨年来、青少年の凶悪犯罪が多発し、世相に暗い影を落としている。文部大臣はじめ教育関係者の「尊い生命を傷つけてはならない」とのメッセージは、少年たちの心に届いただろうか。どういうわけだか、空虚な言葉に思える――そう感じた人は私だけではないはずだ。
仏法では、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり」(『日蓮大聖人御書全集』1596n)という。世界中に満ちあふれる財宝も生命の尊さには換えられない、と訴えているのである。
生命の尊厳――それは私たちにとって、「守る」という動詞の目的語ではない。私たち自身が生命である。生命は主語なのだ。自らの生命の尊さを知ることなしに他人の生命を尊重できるであろうか。創価教育学の源流たる牧口常三郎は、「教育は児童の幸福のためにある」と叫んだ。子どもたちの生命それ自体への畏敬の念なくしては、言えない言葉ではないだろうか。「持ち物検査」には、生命の尊さを目的語としてしか呼びかけない、もどかしさがあるのだ。
子どもたちに生命の尊さを伝えていくために、まず必要なことは――子どもを尊敬しぬくことではないだろうか。成長する子どもの可能性と未来を信じ続け、愛情をたっぷりと注いでいくことではないだろうか。
昨年、不幸な事件の被害者となった山下彩花ちゃんの母親・京子さんは、彩花ちゃんが最後の一週間に見せた「命の凄まじい力」に励まされ、絶望から立ち上がって生き抜くことを決意したという。そのことを『彩花へ――生きる力をありがとう』(河出書房新社)という一冊の本に綴っている。
この本の最後に京子さんは、最も憎いはずの加害者の少年に対し、「もし、私があなたの母であるなら、真っ先に、思い切り抱きしめて、共に泣きたい」と語りかける。そして、「あなたが生まれてくることを楽しみに待ち、大切に育ててきたのだと教えてきたでしょうか」と敢えて自問する。深い憎しみを通り越して、人としてこの世に生を受けた尊い生命として少年に思いを致す京子さんの、広大な思いやりに胸を打たれた。
京子さんは、彩花ちゃんから「いのちというものの荘厳な営み」を教わったという。私たちもまた、子どもたちと共に、自らの、そして互いの生命の尊さを確認し合い、そして、生き抜く日々でありたい。
1998.4.14