心を科学することはできるか?

山岡政紀(YAMAOKA Masaki)



   心の不思議に迫りたいと感じたことのある人ならばだれしも「心を科学することはできるか?」との問いに頭を巡らしたことがあろう。本稿では、この問いに対 して現在の人文科学が提示している「答え」を簡単に整理してみたい。その前に準備として、「科学する」とは、いかなる行為であるか「心」とはそもそも何 であるか、という二つの問いに答えを与えておく必要がある。

 はじめに、「科学」は狭義では自然科学を指すことがあるが、それほどに自然科学が17世紀以降の近代科学を特徴づけている。事実としての現象を「客観 的」データとして蓄積し、それら事実に一貫する法則を数学的方法で記述するので、経験科学と呼ぶこともできる。データと数学的方法によって、理論の正当性 を厳格に評価する方法を持ち得たことは、自然科学の急速な進歩をもたらしたと同時に、その信頼度の高さと、その結果もたらされた科学技術としての工学的進 歩が現代の人々を時たま「科学信仰」に陥れている。

 その前提にはデカルト的物心二元論がある。デカルト(1596−1650)は、主体的に自己存在を自覚することのできる人間の思考、即ち「自我」に注目 した。自我というものは、空間内における物理的実在としてはその存在を認めることができない反面、他者の存在を認知するおおもととしてのそれは否定し得な い実在であるという二面性を持っている。デカルトの有名な「我思う故に我あり」とのことばはこのことを表現したものである。この二面性は、科学の方法論に 対しては、結果的に、人間の知覚においてしか得られないはずの「物理的世界」なるものを、我々の「自我」とは異質で、かつ我々に先行して存在するものと し、それによって、客観世界をそ定することに寄与した。世界をデータとして扱うための基礎が整ったわけである。現代人の多くが持つこの世界観は、現象学で も中心的テーマとなりフッサール(1859−1938)は「自然主義的態度」と呼んでいる。

 さて、科学哲学の分野では、データの取り方そのものに、仮設された理論の枠組みが既に反映されており、真に客観的なデータというものは存在しないことを 論じ、自然科学全体の基礎に問題提起をする議論がこれまでも多く提出されている。N.R.ハンソン(1924−1967)の「理論負荷性」や、より発展し たクーン(1922−)の「パラダイム論」などがそうである。日本では村上陽一郎(1936−)らがこの議論を特に精力的に行っている。

 ともあれ、「科学する」とは、少なくともこれまでは「何らかの事実を客観的データとして獲得し、その中から普遍的真理を発見する」こ とであった。

 それでは、「心」とはそもそも何だろうか。その前に、上に述べた自然主義的態度における「心」について確認しておこう。物理的には「心」は存在しな い。では、大脳皮質の上で生じる様々な化学現象は「心」と言えないのか。私たちが「心」と呼んでいるものと、この化学現象とが、ちょうど紙の裏表のような 密接な関係にあることは直観的に理解できるのだが、しかし、明らかに範疇を異にしている。我々は、他人の心をのぞきみることはできない。肉体の痛みを他人 と共有することもできない。頭蓋骨を割って、中をのぞき込んでも、他人の心は見えない。仮に脳内の神経細胞を流れるあらゆる電気信号を解読することができ るとしても(事実上不可能だが)、その時に解読したものを、我々が「心」と呼ぶものと等価とみなすことはできない。

 結局、我々が「心」と呼んでいるものを定義しようとすれば、まず、「心」の私性に言及せねばなるまい。「心」は常に私の中にしか存在しないと同時に、逆 に「私」の私たるゆえんは私の肉体によるのではなく、私の「心」によるものである。脳の化学現象を外から見る上において、他人の脳と私の脳とはいずれも、 数多くある物理的実在としての「脳」の集合の外延であることにおいて共通している。しかし、「心」はその存在が自らにおいてしか認めることができない。外 から見た心の影としての脳と内から見た心とは決定的に範疇を異にしている。他人に「心」を認めるのは自らの「心」をもとにした類推でしかない。この無根拠 な諒解をフッサールは「間主観性」と呼んでいる。

 以上の論点から、「心」とは何かに対する第一の答えを「自我」であるとしてよいだろう。デカルト的二元論で結果的に排除された「自 我」を科学するということは、科学が求める客観性ともはや論理的矛盾を起こしている。

 心理学はこの矛盾に悩み、苦悶してきた科学であった。まず、19世紀以前の心理学は、上に述べた範疇の錯誤に全く対処できず、それを乗り越えようとし て、ワトソン(1847−1939)は、心理学の対象を刺激と反応の相関に限定する方法論を提唱した。つまり、無形の心理的現象を、何らかの有形のふるま いに置き換えることによって、自然科学と同様の「客観的データ」として蓄積し、それをもとに理論化しようとした。「行動主義」と呼ばれる立場である。しか し、この方法では、無意識によるふるまいと、意志によるふるまいとを区別して記述することができないし、記号的な人間の能力、つまり嘘をつける能力、演じ られる能力を全く説明できない。この立場での「心」は、「自我」とは明らかに異質のものである。

 それに対して心理学の一分野とも考えられるが、「精神分析学」という分野がある。主に精神病患者の臨床例をもとに、人格を形成する諸経験の無意識的構造 を分析しようというものである。そのもたらす成果はもはや自我としての「心」を超えるので、深層心理学や超個心理学とも呼ばれることもある。その代表人物 はフロイト(1856−1939)である。その後、ラカン(1901−)はソシュール(1859−1913)の影響を受けて、自我が成立するための条件は 他者との関わりであり、それは言語そのものであるとし、フロイトが無意識と呼んでいるものは、自我を形成する言語の痕跡であるという斬新な見解を示してお り、注目される。

 「心」を定義づけるもう一つの答えを用意したのは、記号学の実質的な創始者であるソシュールである。彼は人間だけが持つ記号的能力、つまり世界を「意 味」として認識する能力に着目し、それが言語を含む諸記号の使用を可能にしていることを論じた。彼は、人間の意識にのぼる知覚は常に概念化されている、と 主張したが、それは、意味こそが自我を成立させている、ということをも含意している。つまり、「心」とは何かに対する第二の答えは、「意味」だというのである。日本でも丸山圭三郎(1933−)らが、その主張を より合理的に明示する作業を行っている。

 人間が操る記号のうち、最も複雑、最も高度、そして最も体系的な記号とは言語である。しかし、その言語を探究する言語学では、アメリカ構造主義言語学と チョムスキー(1927−)の生成文法が、言語の形式面の研究である音韻論と統語論の飛躍的進歩をもたらした反面、言語の意味の研究である意味論は敢えて 無視されてきた。わずかに行われてきたのは、個別言語の意味のコードの実態に関する微視的な研究に限られた。それは行動主義心理学とも似た苦悶の帰結で あった。

 自然言語の意味は主観内にしか見いだせないことはもとより、いわゆる科学的方法になじまい特徴をいくつか持っている。その一つは「恣意性」である。「恣 意性」とは意味するものと 意味されるものとの間に必然的関係がないことである。両者を結び付けるのは社会的な約束としてのコードである。私の目の前にある「机」をそう呼ばなければ な らない必然性は全く無く、個別言語のコードに従って「机」と呼んだり、deskと呼んだりする、ということである。また、「示差性」も一つの特徴である。 つまり、個々の意味は他の意味との 関係に他ならないということである。例えば、私たちはふつう「たぬき」と「犬」とを区別しているが、このとき、この二つの概念は対立を有しており、示差的 である。「たぬき」に当たるものを知らない民族の人々が初めてたぬきに遭遇したとき、彼らはそれを名指しできない未知の動物とは思わず、ちょっと変わった 「犬」だと思い、そう呼ぶだろう。その限りにおいては、彼らの「犬」の概念の領域は、我々の「犬」より広いことになる。つまり、それぞれの意味は境界線を どこに置くかで決まることになり、その他のあらゆる隣接語との境界線が全部決定しないとその語の意味は完全には決まらないことになる。しかも、第一の特徴 である「恣意性」も、厳密にはこの境界線の恣意性のことである。

 先に述べた科学の方法論のあり方からすれば、意味がいかにやっかいなしろものかがわかる。第一に、物質的世界のどこにも見いだすことのできない、つまり 主観内に限定された意味を、客観的データとして採取することは不可能である。言語学者が採取できるデータはあくまで文字や音であって、その文字や音によっ て発話者はどのような意味を伝えようとしたのか、聞き手はどのような意味に理解したのかについては、結局データを採る人の判断に任されたきわめて主観的な 事柄なのである。つまり意味論の上では、科学哲学での科学批判のような問題は既に当然すぎるほど当然のことだったのである。

 また、示差性の規定の仕方は必ずネガティヴなものとなる。日本語の「たぬき」はまず「犬ではない」と規定される(生物学的分類とは一致しない)。万事、 すべての語の意味は○○であるとは定義できず、○○ではないとしか言えない。そのため、意味というものは最終的には体系としてしか特定できない。「意味」 の持つこのような性質は、科学の方法論の前提の一側面となっている「データの個別化」になじまない。「データの個別化」とは、いかに全体的な連関を有する ものに対しても、何らかの概念的な単位によってそれらを要素に分断し、その要素についてのデータを得る要素還元主義のことである。

 また、自然言語の意味は社会的な約束であると同時に個人差を伴うもので、テーブルとして売られていた四脚つきの板を書き物専用に使用するとき、それを机 と呼ぶか呼ばないかには個人差がある。同時に、個人においても時間とともに変容するものである。これらのことが複合的にからまって、意味を客観的データと して採ることを不可能にしている。

 また、比喩のように、語と意味の関わりを、場あたり的に変容させることも可能だが、恣意性からすれば、いわゆる辞書的な意味と比喩的な意味との間に本質 的な境界線はなく、社会的コードからの距離により比喩とされる。しかも、コードの変化により比喩でなくなることも有り得る。例えば、「お父さんは一家の柱 である」というときの「柱」の意味は、この文脈の中では、建造物を支える「柱」とは異なる意味を持っており、このような使用がコード化すれば、「柱」とい う語の意味として「何らかの組織の中心人物」を辞書に加えることになろう。このような語の意味については境界線を確率論的にぼかすいわゆるファジィ理論を 用いれば、ある程度の実用に供する記述は可能だが、本質的ではない。文の意味となると、その全体の体系はもはや平面的ではなく、単一の境界線では規定でき ないので、ファジィ理論ですら対処できない。言語学の長い歴史の中でも「意味」が忌み嫌われてきたというのはしゃれではないのである。

 さて、意味は「心」だけが持ち得る特徴の一つなのではなく、意味こそが「心」の「心」たるゆえんであるとの主張がしばしばなされている。社会的なコード の存在がフッサールの言う「間主観性」の大きな根拠になっていると思われる。「私」を「『私』ということば」によって主体の外に描き出しているのである。

 記号学では、言語学よりも巨視的な視点に立つことで、ソシュールの理論を活かすことができ、意味を対象領域に収め得た。それにより、カントらが議論して きた認識論への一つのアプローチとして、自我とは何かに答えを提供しようとする方向性をも志向することとなった。その処理の仕方はいわゆる近代科学の方法 論と異なるが、それでいて合理的である。これらの点から、「記号学」の誕生は20世紀の奇跡とも言うべきと筆者は考えている。

 人間の認識がそのまま記号的であることをソシュールの説を借りて言えば、日本人が虹の色を七色であると見るのは、虹の色は「赤橙黄緑青藍紫」との言語体 系が先行している。ある民族の人々に虹の色が三色に見えるのは、色盲なのではなくて、そのような言語体系を持っているからに過ぎない。

 また、いま私の目の前にはコップがある。これをコップと認知するためにはコップという概念、要するに「ことば」が必要である。つまり、コップという概念 を内に持つ意味体系の言語を持っているが故に、飲用の液体の容器としての機能を備えたところのコップという実体に到達するのであって、この概念を意味体系 の内に含まない言語の話者にとって、目の前の物体は、他のガラスの塊と区別する必然性を認識できないはずである。同様の理由でガラス製の灰皿も認識できな いとすれば、この灰皿の上にコップを乗せたとき、両者が物理的な連続性の有無とは無関係に、人間の生活における存在の意味という点で連続体なのか非連続体 なのかは、当然認識できない。これを目の前のすべてのものに強力に適用するならば、すべてはカオスとしてしか知覚されないことになる。つまり、我々は、目 の前に見える一つ一つの「実体」に名付けをしているのではなく、意味体系としての言語を持ったときにはじめて、世界がカオスではなく、境界線をそれぞれに 持った実体として認識されるということになる。このとき視覚像といえどもきわめて記号的であることは後に述べる認知科学が明らかにしてくれている。

 ちなみに、言語を持たない、即ち概念を持たない動物の認知の世界は、すべてがカオスであると考えられる。彼らの行動原理は第一に本能である。たとえば、 肉食の野生の犬は、ある物体が自分が食することの可能なものかどうか、きわめて鋭い嗅覚によって、本能的に識別する。故に、肉片とにんじんと玉葱とじゃが いもとを木ノ実の香料を用いて煮たものを目の前に出されても、その中から肉片をかぎわけて食うだけで、その全体に「カレー」という概念を付与することはで きないし、また必要ない。つまり彼らの世界はひたすら即物的であって、記号的な概念操作を一切必要としない生き方をしている。人間は、同じ素材であって も、料理の仕方や味付けによって、別の概念をそこに付与する。今、周囲を見回してみても、同じ種類の木材でできていても、柱、床、机と、互いに「別なも の」としてそこに存在している。逆にスチール製の机と木の机という全く異なるものであっても、机という同じ概念で切り取られているのである。結局、私が知 覚するところのこの世界は、それ自体がある意味体系を持った言語の世界であって、それに先行する世界があって、それに言語が付与されているのではないとい うことである。

 ところが実は人間も、世界との接点においては、先に述べた野犬の嗅覚と同様、概念化を必要としない領域の方を圧倒的に多く持っている。例えば、体温を一 定に保つための汗や震えやとりはだであるとか、食物に対する胃の筋肉の運動や胃液の分泌などがそうである。この点からすると、生物学的には人間と他の動物 とは大差ないと言ってもよかろう。

 既に読者の大部分の方が気づいておられるかと思うが、ここで概念化と呼んでいるものは、自我意識とほぼ等価である。人間の自我意識とは経験の集積であ り、人間の経験とは概念の世界なのである。言語は経験によって次第に発生するのではなく、言語自体が経験である。言語によらない経験も生物学的にはあるは ずだが、それらはおそらく自我意識にはのぼらない無意識として蓄積するのだろう。事実、私たちの誰もが、言語習得以前の幼児期の記憶を持たないのである。 「ものごころがつく」ということは言葉を持つことなのである。

 このようにして、自我と意味との関わりがおわかりいただけたと思う。これが心とは何かの第二の答えである。この場合の「心」はとりあえず人間に限定され るが、最近では動物の中にも記号的行動が見られると報告されている。いずれにせよ、記号の使用が人間の内部から自然を奪い去り、それが文化的な生活様式を 決定づけており、自然を破壊する様々な行為も、結局は記号の使用に由来するものである、と主張する人に岸田秀(1933−)がいる。

 さて、心を科学するための新しい科学として「記号学」を先に挙げた。もう一つの注目すべき分野として「認知科学」を挙げたい。認知科学は、人間の認知 を、論理的思考や、言語の生成及び理解、知覚情報の処理など、情報処理という高度な知的活動と限定している。結局「記号処理」、 即ちまさに「意味」をめぐっての情報処理を研究する科学として発生している。具体的には、この分野の特異性を象徴するところの人工知能研究にそれが見られ る。つまり、人間の知的活動をコンピューター上でシミュレートするためのプログラムを作成することで、その知的活動の無意識的な手順を記述しようというも のである。コンピューターのプログラムはそれ自体が記号の集積であるが故に、主観内の事象を客観的データに置き換える心理学の方法論とはかなり趣を異にし ている。

 日本では認知科学イコール人工知能研究と勘違いしている人が多いことに筆者は辟易しているが、主観世界の構造を記述するもう一つの手だてとして、記号学 での意味論・語用論研究からの接近があることを強調しておきたい。むしろ認知科学は記号学の一つのあり方であるという見方もできよう。もっとも記号学の方 が、社会現象のあらゆる事柄からその文化を記述するという文化論的な方向に対象領域を広げており、主に論じられる対象領域が実際のところ随分かけ離れてい るのは確かではあるが。いずれにせよ、記号学での意味論・語用論研究それ自体はあくまで言語及び諸記号の体系を明らかにすることを目的としているが、そこ から導き出される様々な知識や判断の様式それ自体がその言語を持つ人にとっての世界そのものであるということを論証するためのより強力な理論が、今求めら れている。

 この認知科学は方法論が特異であるだけでなく、はからずも、人間の知覚がいかにその肉体的制約を厳しく受け、「ありのままの世界」を知覚すること など不可能であることの証明を、改めてしてみせることになった。例えば、D.マーの視覚情報処理の研究の中で、我々が概念化という作業において重要な、 「事象の分節化」、簡単に言えば、物と物との境界線を認知する能力についても明らかにされた。いわゆる経験科学としての自然科学に対して、経験というもの がいかに既に記号的なものであるかを示したわけで、客観性なるものを否定する論拠となっていくことだろう。いかに科学が発達し、データを得るための様々な 技術を開発したとしても、最終的にはデータは人間の知覚像(視覚像が圧倒的に多い)として得られるか、数値のような全くの記号として得られるかしかないの だから。ソシュールの主張と同時に科学の客観性を批判する科学哲学も支持されたことになる。

 また、フッサールも、知覚は常に世界に「意味」を賦与していると主張したが、メルロ=ポンティ(1908−1961)は、一歩深めて我々の身体と知覚世 界の「意味」との関わりを論じた。これらはソシュールと離れたところにあるが、いずれ融合されるべき類似点を多く持っている。言語学の中から生まれた認知 意味論は心身を総合的に見た意味論であり、その一つの濫觴であると筆者は考えている。

 はじめの問いのための準備を進めているうちに、いつしか答えの大半を明らかにしてしまった感がある。つまり、デカルト的パラダイムのもとでは、その答え はノーなの だが、そのパラダイムに問題提起をし、記号学や認知意味論のように、主観世界の現象を客観化せずに、主観世界のまま分析していく、一元論的な科学への可能 性を主張していくならば、そのとき初めて、この問いにイエスと言えるということである。

 さらに、一言付言すると、「心」を科学するまでもなく、自然科学の方でも、従来の物心二元論的パラダイムを改めるべきことが要請される段階に入ってい る。ニューサイエンスという、あまりに画期的すぎて理解しにくい理論が次々と出されているのはその現れだろう。その理論としての評価はともかく、自然科学 を 営む人々が、自らが科学を開始する地点を一歩後ろにずらして、それまで前提として見過ごされていた部分それ自体を率直に問題にしようとする傾向が見え始め たと すれば、まことに好ましいことである。

(1990.9.13)


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