ニューサイエンスと超個心理学
山岡政紀(YAMAOKA Masaki)
1. ニューサイエンスについて
ニューサイエンスと呼ばれる分野が近年国内外で注目を集めている。アメリカで60年代に対抗文化(counter
culture)と称して、ヒッピーたちが文明を捨てて自然に帰ろうという運動を興した。新世代運動(new age
movement)とも呼ばれる。これは一度は衰退して消えるが、70年代から80年代にかけて第一線の科学者の理論の中で復活してくる。これがニューエ
イジサイエンスと呼ばれるもので、日本では、和製英語としてニューサイエンスということばが一般化し、最近になって欧米圏に逆輸入されている。
代表的人物としては、まず物理学者のカプラ(F. Capra)を挙げねばならない。彼は1975年に、THE TAO OF PHYSICS(『タオ自然学』)を著し、一躍注目を
集める。そこでは、現代物理学の最先端の理論と東洋神秘思想との間に見られるアナロジーに注目して、物質的世界は構成要素に還元できない、とする全体包括
的世界観が提出される。
やや遅れて、ユング等の深層心理学の流れを汲むウィルバー(K. Wilber)が登場して超個心理学(trans-personal
psychology)と称される全体包括的な意識の接近が試みられる。ここでは、ホログラフィ(完全写像法)を比喩として、宇宙の究極の実在とされる分
離不可能な「心」が論じられる。このホログラフィック・パラダイムは大脳生理学にも生かされ、プリブラム(K.
Pribram)は記憶の非局所性を突き止め、脳ホログラム説を唱えた。
また、ボーム(D. Bohm)は、1980年に著したWHOLENESS
AND THE IMPLICATE ORDER(『全体性と内蔵秩序』)の中で、感覚や思考によって捉え得る世界を明在系
(explicate-order)とし、その奥に、分断も境界もなく流動的な関係(holo-movement)をなす全体としての暗在系
(implicate-order)が存在し、それこそが意識と物質の源流であると論じた。
さて、十七世紀以来の科学の発展の歴史は、いわば「ニュー」の連続であったと言ってよい。その上にあって敢えてこれらの成果を「ニュー・サイエンス」と
呼ぶならば、それは、これまでの科学の発展の延長上には見いだすことのできない、何らかの質的な転換をもたらすものでなくてはなるまい。そしてこれらの理
論は、その是非はともかくとして、確かに画期的な転換を提起している。その論点を@要素還元主義の否定A客観性、物心二元論の否定、の二点について簡単に
論じたい。
まず第一は、デカルト的な物心二元論に支えられた要素還元主義を否定し、全体包括主義的なアプローチを図ろうとするものである。デカルト以来の近代科学
のパラダイムを有効に支えるものは、間違いなく数学的思考であるが、全体包括主義においては数学が有効に機能しない。なぜなら、数量化することの大前提
に、部分の集積が全体である、つまり、1+1=2であるという原則が働いているからである。全体包括的な世界観は、ホログラフィックパラダイムに代表され
るように、分離不可能な全体を出発点として、1=1+1であるような、人間の通常の空間的概念とは相容れない、「全体=部分」の世界を論じる。同じパラダ
イムの中で発展を続けた(続けたといってもたかだか300年に過ぎないが)科学に対して、パラダイムそのものをガラッと変えることを要求するこれらの科学
を「ニュー」と呼ぼうというわけである。
数値的データによって検証されてきた近代科学の方法論によって、これらの新しい理論の是非を検討することは本質的に不可能であり、ここに両者の議論がな
かなかかみ合わない原因もある。
第二に、近代科学は、理論の内側にその理論を立てる科学者の存在を介入させないことを要求する。つまり、「客観性」が要求され、それは数値的データに
よって確保されてきた。しかし、ハイゼンベルグの不確定性原理に代表されるように、対象の客観性を保持することの限界が論じられるようになってきたり、ユ
ングの「共時性」のように主観的世界のうちのなにがしかが客観的と思われているこの世界の有り様と、ある連続性を備えていることが論じられるようになって
きた。さらに、カプラがそうであったように、社会現象の上に生起する様々の矛盾を、近代科学が精神性を排除したことの帰結と捉える見方も多く提出された。
これらの流れの上に起こってきたニューサイエンスでは、「全体包括」の全体の中にあらゆる「自己自身」さえも含むという徹底した立場をとる。世界を対象化
することなく科学者自身が主体的に世界に関わっていこうとする態度を持ち続けること、すなわち、科学者自身の精神的鍛錬が要求されるのである。
要素還元主義がデカルト的な物心二元論に支えられていることは言うまでもないが、この客観性についての議論もまた、必然的に物心二元論を否定するもので
ある。
全体包括的な世界観が数学の有効性を失うのと同様、われわれ自身の主観世界の有り様のイメージもまた数学的接近を否定する。例えば、赤や青といった色に
ついてそれぞれの色の波長の構成を数値化して、その差異を論じたり、「復元可能性」を確保できるのに対し、人間の知覚世界に映る色のイメージはいかにして
も数値化できず、その個人間の異動についても論証する手だてを一切持たないのと似ている。
また、重要な論点の一つとされる東洋思想との類似も、仏教や道教にみられる心身一如の原則が、物心二元論と対立する世界観として注目されることが大きく
働いている。
このような新しい科学が今後発展していくために必要とされるものは科学者相互の人間的信頼関係と協調であろう。正反対に、世界を対象化する近代科学で
は、人間的なもの、情緒的と見なされるものは徹底的に排除され、どう疑って見ても「客観的に」正当と認定し得る数値的データを以てその是非が検証された。
現在の学術界の制度が確立したのは、その必然的帰結である。なぜなら、科学者相互は、いかなる個人間の私的な交際を持とうとも、科学者としては「疑ってか
かる」ことが質的に要求されるからである。このことは、理論の形成が個人単位で成立することをもたらす(共同研究であっても本質的には同じ)。これが、学
会や学術雑誌の水準を制度的に維持するための必要最小限の条件となっている。しかし、自己の精神的領域と物質や他者との連続を論じるニューサイエンスで
は、本質的に客観的、数値的な検証が不可能であり、その代わりに、ある科学者の精神的な洞察に対して、他の科学者も自ら同様な洞察を試みることによって、
個を超えて、共通の洞察領域に接近しようとする態度が要求されるであろう。このような科学には、論文が何本発表できればどういう権威を得られる、といった
ような、個人間を相対化するような制度はなじまないであろう。同時に、個人的な野心の故に得てもいないでたらめの内面的領域を恣意的に語る者が出現する可
能性も十分あるが、その人はいずれ人間として信頼を失墜し、排除されることは間違いないであろう。
ニューサイエンスは科学とは言えない、という批判も多いが、それは「科学」の側の定義にもよるだろう。「科学=近代科学」という前提を持つ人にとって
は、ニューサイエンスが科学でないのは火を見るよりも明らかである。しかし、そんなことを言っても何も議論していないのと等しい。問題は、科学が明かすと
ころの「真実」は一体どこにあって、どのようにすればそれを見いだせるのか、ということである。われわれがこの目で見る世界には、自らの目は映らない。こ
のように欠落部分を持った世界を真実と見るか。それとも、自らの目を一歩後退させて、一切を欠かない世界を真実と見るか。そこまで立ち返って、ほとんど無
意識化してしまっているとすら言える諸々の前提を取り去って、そしてはじめて、ニューサイエンスの是非を問うことができるのではないだろうか。
ただし、ジャーナリズムでもてはやされることは危険である。もちろん、一般の人々のナイーブな直観的な共感は、決して軽んじられるべきではない。しか
し、これによってすべてがひっくり返ってしまったかのように錯覚して無用にはしゃぎ回ることも避けねばならない。現代社会を支える技術と結びついている近
代科学を批判することは、もう一度ヒッピーに戻るのでない限りは、ラディカルな文明批判につながってしまうからだ。
2. 超個心理学について
先に述べた第二の論点はまことに示唆的である。というのは、心理学に対しても、現代哲学の唯一のテーマたる認識論に対しても問題提起を行うことになるか
らだ。このあたりの事情について簡単にまとめてみたい。
まず、心理学について考えてみよう。物心二元論に基づく近代科学のパラダイムにおいて許される心理学の形態は「行動主義心理学」であった。つまり、人間
の意識の内観は一切行わず、観察可能な振る舞い、行動をのみ対象とする。これにより、本来数値化不可能のはずの心理現象を数値化してデータとして確保する
のである。ちょうど、化学反応でも見るかのように刺激と反応の相関を見ていくわけである。この理論的な誤謬は、人間の心理をすべて刺激に対する反応であ
る、と見なしてしまうことにある。人間は自らの意識を出発点とする意志的行為をなし得るはずだが、それは刺激に対する反応ではない。人間と他の動物との境
界線とも言うべき自由意志の余剰の多さ、即ち、人間の主観世界としての精神に関わる部分が行動主義心理学ではお手上げなのである。すると、必然的に主観世
界の中にのみある「意味」の問題に対しても全くお手上げになるため、言語行為のような記号的行動に対しては全く対処のしようがない。
一方、行動主義心理学とは異なる流れとして、フロイトに代表されるような精神分析学の一派がある。これは精神病患者や麻薬中毒患者に対する問診などをも
とに、人間の無意識層に対するアプローチを行う。しかし、行動主義心理学もまた、自我意識を関与させないので、無意識を対象としていると言えるので、両者
は本質的には似通ったものと考えてよい。
岸田秀氏の言葉を借りて言うなら、行動主義心理学は第3人称の心理学であり、精神分析学は第2人称の心理学である。すると第1人称にあたるものは、まず
は心理学の範疇には入らない実存哲学や現象学などを指すことになるであろう。また、近年、人工知能研究の進歩に伴い、人間の認知活動における記号的情報処
理についての研究が盛んになり、認知科学と呼ばれている。これも第1人称のある部分を対象としていることになろう。ともあれ、第2・3人称の心理学を無意
識の心理学、第1人称の心理学を意識の心理学とよぶことができる。ところが両者は全くの没交渉であり、いずれも人間存在の全体観に立ったものとは言い難
い。
そのような意味で全人称の心理学と言い得るものが、超個心理学(trans-personal
psychology)であろう。まずその源流をたどる必要がある。第一に、ユング心理学である。ユングはフロイトと同様に精神分析学者の一人でもある
が、ユングの場合は神話や民話などに見られるような共通のパターンに照らして、ある程度の人間の集合体が無意識的に共有している「集合的無意識」の存在を
主張している。
もう一つの源流はマズロー(A.Maslow)やスティッチが提唱した人間性心理学である。精神の高揚という実感的に存在する現象を探り、自己実現を目
標とする心理学である。典型的な第1人称の心理学と言うことができ、また、まことに実践的である。マズローは自己実現を「潜在性、能力、才能の実現。使命
の達成。当人自身の本来の性質の受容とそれに関する十全な知識。個人のなかの統一性、統合。」としている。
そして、この人間性心理学を提唱した人々の中から、その実践的理念とユング心理学の理念を融合させてできあがったのが、超個心理学である。
例えば、ウィルバーは、ユングと同様に認識を階層構造によって捉えるが、よりダイナミックに全体観から認識の各現象の相関関係を述べる。彼は、認識に三
つのレベルを認める。第一のレベルは「自我」である。物心二元論で分けられるところの、自覚し得る認識の主体そのものを指し、自らの肉体をも客体化する。
第二のレベルは「実存」である。自己存在が個別的に存在するとの認識、つまり自己を肉体を含んだ総体と見て、それと他者との境界を設定する。第三は「心」
である。自己が根元的には宇宙と一体である、との無意識の意識を支えるものであり、これこそ宇宙の究極の実在としている。主要著書である、 THE SPECTRUM OF CONSCIOUSNESS(1985〜6
『意識のスペクトル1・2』吉福伸逸他訳)で、ウィルバーはこれらの各レベル間の意識上の転換が世界観の転換に対応することを体験的に語っている。ちょう
ど一つのものに異なる周波数の電磁波スペクトルを当てると、異なる見え方をすることと似ているので、これを「意識のスペクトル論」と呼んでいる。重要な点
は、この第三のレベルと第二のレベルとの間に、どう考えてみても超個的なアイデンティティの帯域があると主張していることである。
彼の主張する超個心理学は、明確に、ニューサイエンスの一つの分野であると認めることができる。科学者自身の、世界への実践的接近がニューサイエンスでは
求められることは既に述べたが、人間性心理学を源流に持つ超個心理学もまた、その全人格的把握はまことに実践的である。
また、ニューサイエンスと東洋思想のアナロジーはこれまでもたびたび言われてきたことだが、最も先駆けてユングが集合的無意識の理論と大乗仏教唯識派の
思想との近親性に着目している。つまり、東洋思想こそは全体観から始まっている。そしてその中には、西洋近代科学におけるような分析的、帰納的な方法では
知り得ない、直観的、演繹的な生命観があり、そのことが何らかの実践的な方法論を内包していることを予感させる。超個心理学はユング心理学にも増して実践
的であるので、そのアナロジーは唯識派や天台の理論のような静的な思想よりもっと実践的な理念の中に求められる必要があろう。
実践的ということばをオウムのように繰り返しても、実際に方法が無ければ実践は成り立たない。故に、真に実践的な哲学こそ我々の求めるところであり、
「21世紀へ行動する会」が目標としていることである。カプラが主張したように、また、ニューサイエンスという分野が本質的に要求しているように、社会現
象の様々な矛盾を超克するカギもそこにあると信じるからである。人間と科学との分離、人間と自然との分離、そして今回の企画のテーマとなっている個人主義
の根にある自己と他者との分離。これら近代科学、近代文明の落とし子たる分離現象が、それぞれ、核兵器の開発、環境破壊、そして弱肉強食の現代社会を築い
てしまったのではないだろうか。我々は自我のエゴイスティックな執着を離れて、全体観に帰一する必要があることを、超個心理学が示唆する警鐘と受けとめて
参りたい。
(1989.10.8)
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